かさねてきたもの

muon   滔々と と 重なりつつ・・・・・   続きとなります

 

 

 

 

醍醐寺にお邪魔したのは 3月16日



4.9に借りたのは 『婆娑羅 太平記 真言立川流』(黒須紀一郎 著)
ストーリー仕立てになっていて(敵視する立場から書かれたものはないようす) 主人公は「文観弘真」

「仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、彼らと立川流との関係を疑問視する向きもある」と wikiさんは注意を促しておられる

 



(4.7に)「新潟県新発田市で白骨化した遺体が見つかった事件」で 
被害者の方の叫び声が聞かれて(車で)連れ去られたようだ ということが(9日に)流れて・・

 

ちょうど 

婆娑羅 太平記 真言立川流』での 何度か登場するシーンをみていた折のことでした

 

 

~「あれー!」

 女の悲鳴が、周囲の木々にこだました。しかし、和尚は一向に斟酌する様子もない。~

 

~和尚は、白い脛を顕にして暴れる女をものともせず、肩に担ぐと来た坂を上り始めた。~

 

(やがて女性は騒がなくなる)  ~観念したのかと思ったが、そのようにも見えなかった。~


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2014年4月14日 午後3時頃 神奈川県川崎市宮前区

ケヤキの枝が落下し 付近を歩いていた女児(6歳)に当り 頭を強く打つケガ

 

2014年3月16日午前8時25分頃 広島県三原市宮浦2丁目

ポプラが根元から倒れ、近くを歩いていた女性(51)の頭を直撃

一緒にいた女性(57)も重傷

 

2012年11月18日岐阜県大垣市上石津町の森林公園内

小学校1年の女児(当時6歳)が落下したスギの枝の直撃を受けた 

 

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wikipedia立川流密教)」より

【歴史】
立川流は鎌倉時代に密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代後醍醐天皇の護持僧となった文観によって大成されたといわれる。

 

1113年(永久元年)、後三条天皇の第3皇子・輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を図って失敗し(永久の変)、11月に伊豆の大仁へ流された(ただし、これは冤罪の犠牲ともいわれる。後述)。名を蓮念と改め、この地で真言の教えを説いていた仁寛は、武蔵国立川(たちかわ)出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。ほかに観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、彼らに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。

1114年(永久2年)3月に仁寛が城山(じょうやま)から投身自殺を遂げたのちは、見蓮らが陰陽道真言密教の教義を混合して立川流を確立し、布教したとされている。鎌倉には、京都から放逐された天王寺真慶らによって伝えられた。

その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』によると、真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていたといわれる。

 


鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。

1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。

1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者[2]にまで上り詰めた。

これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。

 


鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。

1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。

1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者[2]にまで上り詰めた。

これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。

 

 

後南朝が衰退した後、立川流も徐々に衰退し、江戸時代の弾圧によって断絶。現在には伝わっていないというのが定説である。真言正統派においては、この邪説に対する反証として、戒律を厳しくするなどの試みが行われた。

しかしその独特の教義は仏教の各派に多くの影響を残し、後の日本の密教思想の形成の大きな遠因となっている。

 

【疑問】
上に記述した歴史については、多くの学者が疑義を呈している。

仁寛を立川流の開祖とする記述は、『伝灯広録』などの文献にみられる。しかし『伝灯広録』は、その記述に誤りや矛盾が数多く指摘されており、信頼性が低い。
仁寛が伊豆に流されてから死去するまでの期間は5ヶ月であった。流刑に遭うまでは、仁寛には独自理論の確立に関する目立った動きがみられないことから、この5ヶ月間で教義を練り上げ、しかも伝授したと考える必要があるが、あまりに短すぎるため不自然である。配流される前の、醍醐三宝院に在った頃から研究をしていたと考えても、見蓮に奥義を伝授するのに要した期間が短いことには変わりない。
千手丸事件で罰せられたのが仁寛、及び実行犯とされる千手丸の2名のみであったのは、そもそも天皇暗殺計画がなかったからではないか。即ち、謀反は輔仁親王や支持勢力の村上源氏(仁寛も一族の1人であった)の影響力を削ぐために白河上皇によって捏造されたものであり、彼らを一掃せずとも所期の目的を果たせさえすればよしとしたため、この2名のみを「生贄」としたのではないか(その際、仁寛の邪悪性を際立たせる材料として立川流を利用し、彼を開祖に仕立て上げたとの見方もある。なお、文観についても同様に、悪人の印象を植え付けるために立川流と関連付けられたとの説がある)。
立川流が邪教視されるようになったのは、高野山の教学を大成した宥快が批判し、立川流の典籍などを高野山の御影堂の前に集めて焚書したことに始まるといわれる。宥快は高野山で行われていた念仏も追放したが、立川流高野山教学の権威を高めるための犠牲になったとされる。また、立川流南朝側と結びついていたのに対し、宥快などは北朝側と結びついていたため宗教的な権力だけでなく、政治的な権力の巻き添えになったとも伝えられる。
以上のような疑問のほか、仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、彼らと立川流との関係を疑問視する向きもある。

しかしながら、ほとんどの記録が失われた現在では、多くの疑問点が未だ真相不明のまま残されているのが実情である。現在残っている資料として『受法用心集』『宝鏡抄』といった文献があるが、これらは立川流を敵視する立場から書かれたものである。このような弁護がなされ、真言の教えをかばおうとしているが、まだ、成功したとはいえないとの批判もある。

 

 

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立川流の勢力圏は 関東に限らず
高野山にも比叡山にも入っていたし、醍醐寺などは当然メッカだ。ほかにも古代からの大寺名刹の中に、立川流に染まった寺はいくつもある。」
(『真言立川流』 藤巻一保



「成立相承した立川邪教の流れが、蒙古襲来の文永ごろ(1264~1275年)には完成していたものだろうと述べている」のは 
守山聖真氏



「赤白をもって両部大日如来となし、あるいは日輪(にちりん)・月輪(がちりん)と名づける。・・・・・・いうところの赤色とは、皮膚と肉、また母婬である。すなわち、胎蔵界大日如来である。白色は色骨、また父婬である。すなわち、金剛界大日如来である。」
(『三十七尊配位鈔(さんじゅうしちそんはいいしょう)』 内の 『権僧正(ごんのそうじょう)勝覚の御記(ぎょき)』) 


種蒔きは「勝覚」の弟「仁寛」ではないか(そのつもりはなかったとしても) という見方があるようです

 

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wikipedia  「勝覚」

勝覚(しょうかく、天喜5年(1057年)- 大治4年4月1日(1129年4月21日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は源俊房。立川流の祖仁寛の兄。

醍醐寺座主定賢から灌頂を受け、また義範・範俊に師事して真言密教の奥義を伝授された。醍醐寺三宝院に住し、1085年(応徳2年)醍醐寺座主に就任し、1092年(寛治6年)に広隆寺、ついで1104年(長徳元年)には東大寺に移った。1107年(嘉承2年)に権少僧都に任じられる。度々神泉苑で祈雨法を修し、1120年(保安元年)に少僧都に任じられ、以後東寺長者・同寺法務・同寺寺務を経て権僧正に任じられて東寺別当に至った。弟子には三宝院流の祖定海・理性院流の祖賢覚・金剛王院流の祖聖賢などがいる。

 

 


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漆も 要素のひとつ      (髑髏絡みで)

 

 


amorphous  2013.11.13 分より  


<11月13日を「うるしの日」とした由来>

~漆は遠い昔から使われてはきましたが、「うるしの製法」「漆器の製造法」は、文徳天皇の第一皇子惟喬親王が、いまだ完全でないのを憾みとせられ、京都嵐山法輪寺に参籠され、本尊虚空蔵菩薩より御伝授、御教示を受けて完成し、日本国中に広めたものといわれており、塗りをする場合に使う継ぎ漆を「コクソ」というのは、虚空蔵から転化したものだといわれております。

このようなことから、親王はその御霊験を深く感謝され、「我が法輪寺(うるしでら)盛んなれば、漆業もまた盛んなるべし、若し我が寺が寺衰うるときは漆業も衰べし、ゆめおろかにすべからず」と御遺戒されました。

爾来、漆関係者は、親王が参籠された満願の日である十一月十三日に報恩講(俗に”漆まつり”火焚祭)を設けて、供養するのがならわしとなっております。

この由緒ある十一月十三日を「うるしの日」と定めた次第であります。~


(『うるしと塗り読本』より)

 

 

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そのようにして 「うるしの日」が制定された とのこと

 



wikipedia 「漆」より

「2000年に北海道函館市で実施された垣ノ島B遺跡の調査で、出土した漆塗りの副葬品が約9000年前に作られたものであったことが明らかになった。」

【利用史】
中世には林産資源のひとつとして漆の採取が行われており、甲斐国では守護武田氏が漆の納入を求めている文書が残され(永禄3年武田家朱印状「桑原家文書」『山梨県史』資料編4(県内文書)所載)、『甲陽軍艦』では武田信玄織田信長に漆を贈答した逸話が記されている。

 

【漆塗起源の伝承】
倭武皇子(やまとたけるのみこ)は、宇陀の阿貴山で猟をしていたとき大猪を射たが、仕留めることができなかった。漆の木を折ってその汁を矢先に塗って再び射ると、とどめを刺すことができた。そのとき汁で皇子の手が黒く染まった。部下に木の汁を集めさせ、持っていた物に塗ると美しく染まった。そこでこの地を漆河原(現在の奈良県宇陀市大宇陀嬉河原(うれしがわら))と名附け、漆の木が自生している曽爾郷に漆部造(ぬりべのみやつこ)を置いた。(『以呂波字類抄』)

即身仏と漆】
自分自身のミイラを仏像、すなわち即身仏とした修行者達は身体の防腐のために予めタンパク質含有量の少ない木の実のみを食する「木食」を行うと共に、「入定」(死して即身仏となること)の直前に漆を飲んでその防腐作用を利用したという。

 


*同「漆器」の項では
福井県(鳥浜貝塚)で出土した漆の枝は、放射性炭素(C14)年代測定法による分析の結果、世界最古の約 12600年前のものであると確認され、漆木のDNA分析で日本の漆は日本固有種であることが判明した。」とあり

 

さらに歴史を遡ることができるようす
 

 


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「漆は耐水性、耐熱性、絶縁性に優れ、酸やアルカリ、アルコール、シンナーにも耐性があり、ガラスを溶かすフッ化水素や、金を溶かす王水にも侵されない上に、毒性もなく、これをうわまる塗料は今でもないといわれている。」


「漆を実際に利用するためには、採取されたばかりの漆(荒味漆)からの木屑などの混入物を濾過除去して「生漆」を作り、さらに常温でよく攪拌し粒子を細かくする「ナヤシ」や、水分を飛ばす「クロメ」などの工程を経て、含水率を3パーセントくらいまでに抑えた「透き漆」を精製する必要がある。これに、顔料を加えると「色漆」、水酸化鉄を加えると「黒漆」となるのである。

 また三内丸山出土の赤漆塗りの浅鉢は厚さ8ミリ、黒漆塗りの木製鉢にいたっては厚さわずか4ミリである。現代の職人が作るにしても、ちょっと手元が狂えば鑿(のみ)の刃先が突き抜けてしまうような薄さである。よほど高度な技術を持った熟練職人集団がいたとしか考えられない。それにしても、繊細な仕事には不向きな石器でどのようにしてこれを作ったのか。これも謎である。

 八戸市郊外、新井田川流域の是川遺跡から出土した「漆塗り飾り太刀」は、玉類などをはめ込み、象眼のような細かい細工が施されている。この飾り太刀について、考古学者の清水潤三は「稀有の珍品」とした上で、その製作には金属工具が使われた可能性に言及している。同じ遺跡から出土した「漆塗り高杯」もきわめて精巧に木をくりぬいて作られたもので、専門の職人は「鋭利な刃物やロクロがなければ、このような整形はできない」と主張する。」

(『知られざる古代日本キリスト伝説』)

 

 

 

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そのお寺にまつわるのであろう 「夢」や「幻想」の一例を k*blanc 2011.5.2分より

 


 『内なる神を求めて』 北川慈敬著 (2000年)   

 

醍醐寺からは 解脱会と真如 その時点で二つの教えが出ていて
そこの真如三昧耶堂には真如苑の教主さんが祀られているのだそうだ・・

お子さまの伴侶さんの母君がその信仰をお持ちの関係で
三昧耶堂にお参りに行かれていたとのこと  

 


~ そこでしばらく拝んでいましたら、私の目の前に
亡くなられた真如苑の教主様ご夫妻のお姿が現れたのです。

「宗派の違うところからいつもいつも来て下さって、本当にどうもありがとうございます。
今日はまたこんな大切な日にお祈りしていただいたので、
お礼に大事なことをお知らせいたしましょう」

すると教主様の後ろに、二人のお子さまと、僧衣をまとった信者の方々が現れました。
そして教主様はおっしゃるのです。

「私どもの教団は、霊界にこういう世界を作っております。
ここは会員さんが亡くなった後でも、穏やかで安らげるようにと作った場所です。

そこであなたにお伝えしたいことは、あなたは普通の方よりも沢山の人に巡り合い、
お付き合いをなさってきたから、その分だけ罪も多いのです。
多くの人を受け入れてきた反面、気性が勝っていらっしゃるから、
多くの人をあなたは切ってきました。それがまだ業として残っています。

60になられたあなたは、これから最後までずっと、
人を切ることをやめなければいけません。  切ってきた人の分だけ、
これからは受け入れにくい人がやって来ることでしょう。
それをすべて受け入れることが、あなたの業罪消滅です。
今あなたに残された課題はそれだけです。

そして私たちが作ったように、あなたもあなたの霊界をどうかお作りになってください。
見えないところに行った人々を救ってあげて下さい」

こうおっしゃられて、私の目の前から姿を消されました。 ~  P112~3    


( 真如苑の本の中にも「真如霊界」という言葉がでてきていた 『真如苑』の本P143 )