武家と呪術…武士は穢れを祓う呪術師でもあった

すぐわかる 呪術の歴史』2001 武光誠



古代人は、呪術を用いて、獲物の増加や豊作を祈った。さらに、病気を呪術によって治そうとしたり、政敵を呪い殺そうとした。あるいは、合戦の勝敗も、呪術によって決められると考えられる場合もあった。

蘇我そが・物部もののべの戦い、平将門の乱、保元ほうげんの乱などのときに、その当事者が呪術を行い、それに大いに期待をかけたことを伝える記事がのこっている。モンゴルの来寇らいこうのときには、敵国降伏ごうぶくの祈りがなされた。そして、たまたま台風によって日本側が勝ったことにより、太平洋戦争のときまで、日本のために「神風」吹くと信じられた。

私たちにとって、呪術とはいったい何であったのだろうか。

人々の心の弱さが、超自然的な力に願いを託す呪術につながるとする考えもあるだろう。

あるいは、近代科学が生まれる前の人々は、陰陽五行説を自然を司る摂理と見て、その上に呪術を行ったとする面もあるのだろう。
P10


自然に身をさらして生きていた太古の人々は、自然の摂理に人間の及ばぬ叡知を感じ取っていた。その偉大なる自然への畏怖が神という概念を生み、草木・山岳・海・川などの自然物、あるいは風雨や日照りなどの自然現象、生命の誕生や死などは、神の意思が表出さらたものと考えられるようになった。そして、人間は神の意思を解読し、神の助力を仰ぐために、特別な儀式を創造する。これが占いと呪術の始まりである。
P11


山は、神のいる所、あるいは神そのものとして、ときに天地の表情を一変させる自然の猛威の象徴として、またときには他界とつながる修行の場として…。飛鳥地方のどこから眺められる大和三山(耳成山も)は、いずれも200mに満たない低山であるが、三角形をなす位置関係、それぞれの優美な姿を古代人は畏敬し、愛し、さまざまな思いを託した。『万葉集』にも多く歌われ、なかでも香具山は「天香山あまのかぐやま」(枕詞は「天降あもり付く」)と尊称されて最も神聖視され、国家の大事にはここで祭祀が行われた。北側中腹には卜占ぼくせんを司る神を祀る天香山神社もある。
P11

 

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「大和三山のうち香具山・畝傍は山」奈良県橿原市

 

 

 

 


(※晴明の父:保名は伝説上の人物で、系譜上の父は、宮内省の大膳大夫だいぜんだいぶ安倍益材ますきである)


晴明以後 陰陽道は天文道が安倍氏 暦道は賀茂氏世襲とされ 衰退と復活を繰り返しながら受け継がれていく P75

 

 

 


平安時代後期 ―――― 1156年保元の乱
まじな う 兵つわもの ども    発生期の武家と呪術
武士は穢れを祓う呪術師でもあった

 


武士の呪力で天皇を護衛


貴族と武芸は無縁のようだが、貴族の中にも武芸で朝廷に仕える人々がいた。その代表は、滝口たきぐちの武士である。滝口は9世紀末、宇多うだ天皇の時代に創設された職で、宮中の警護を任務とした。

警護といえば現代人は武力で敵を追い払うことしか考えないが、平安時代では呪術で邪気を追い払うことも警護であった。そして滝口の主要な任務は、後者の意味での警護だったのである。

その証拠に、滝口の武力が宮中に出現した盗賊を退治したなどという記録はほとんどない。そのかわりに、藤原道長の娘・嬉子きしが出産で死んだときに、陰陽師とともに滝口の武士が、嬉子の魂たま呼びをしたなどという記録がある。また、都に侵入する鬼を追い払うために行われる四境祭しかいさいで勅使の役を務めるのは滝口の武士であった。

滝口がなぜそういう性格だったかといえば、武芸と武具自体が呪術的な存在だったからである。武具を呪術の道具に使うことは弥生時代から行われているが、平安時代には鳴弦めいげん流鏑馬やふさめのように弓を使った呪術が盛んになった。これらの呪術は武芸にすぐれた者が行うほうがよいとされる。

 


武士政権樹立の呪術合戦


朝廷の支配が行き届かない東国とうごくでは、土地の権力者同士の衝突は少なくなく、武芸は実戦の中で発達した。東国が鉄と馬の産地であったこともあって、弓馬の盛んなことは中央にも劣らず、また実戦向きの刀の開発にも熱心だった。そのため東国で乱が起こると朝廷軍は予想外に苦戦することが多かったが、東国の兵たちも貴族たちの武芸から吸収するところが多かった。こうして東国の武芸が洗練されていった先に、源平合戦が起こる。

この頃になると、朝廷は密教の呪術よりも武力に左右されていた。しかし、武士たちが呪術を必要としなかったわけではない。瀬戸内海に基盤を持つ平氏厳島いつくしま神社(広島県宮島みやじま町)に、源氏が八幡宮はちまんぐうに祈願したのは有名だが、戦場でもさまざまな呪術が行われていた。

たとえば、開戦の前には言霊ことだまによる戦いを行う。これは「言葉合戦」といい、互いに自分の家系などを自賛し、相手を侮辱するのがパターンである。相手を殺す前に自分の正当性を述べることは、死の穢れを防ぐことにもなったのだろう。

源平合戦に勝利した源頼朝征夷大将軍の位を得たことにも呪術的な意味がある。「夷」とは朝廷になじまない悪であり、穢れでもある。それを征伐する征夷大将軍は、天皇を守る呪術としての武芸を司る存在でもあるのだ。だからこそ頼朝が征夷大将軍の地位にこだわり、鎌倉幕府が武芸の統合に力を注いだのだと考えられる。
P76、7


 

 

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三条殿夜討ち『平治物語絵巻(模本)』東京国立博物館


平治元年(1159)12月、平清盛が熊野参詣に出発した留守をねらって、藤原信頼らが後白河上皇の御所である三条殿を夜襲して焼き討ちにした。この平治の乱では、源氏は平氏に破れる。源平合戦では密教金剛夜叉明王法も修された。

P76

 

 


雅な呪術の世界

平安時代の文学を代表する『源氏物語』では、物語の重要なポイントに占いと呪術が登場する。そもそも天皇の子である光源氏に源氏の姓が与えられたのも、高麗こまの占いによる(桐壺の巻)。

 

光源氏が女性遍歴を始めたきっかけは、友人・頭中将とうのちゅうじょうたちが女性の品評会をするのを聞いたことだが、これは源氏が天皇の物忌みで宮中の宿直所にこもっているときに行われた(帚木ははきぎの巻)。普通の貴族なら物忌みの日には家にこもって来訪者を断る。しかし、天皇の場合は来訪者を拒絶していたら行事が滞ってしまう。そこで天皇の物忌みの日に所用の貴族たちは、その前日から宮中に入って夜を明かした。

 

その後まもなく源氏は、方違かたたがえのために訪れた邸やしきで、空蝉うつせみと一夜の恋を楽しむ。この出会いは偶然だったが、空蝉を忘れられない源氏は、以後も方違えにかこつけて空蝉の邸に向かった(空蝉の巻)。平安の貴公子たちは、しばしばこのように方違えを浮気の口実にしていたようである。

 

その当時の正妻・葵あおいは、やがて源氏を熱愛する六条御息所ろくじょうみやすどころの生き霊りょうに殺されてしまう。彼女は呪術で生き霊になったのではなく、嫉妬のために自制心を失った魂が勝手に生き霊になったのである。しかも僧たちによる加持祈祷をはねのけるほどのパワーがあった。生き霊になった時、本人は失神していて、目が覚めたら護摩に使った芥子のにおいが体にしみついていた(葵の巻)。

 

源氏の青年時代だけでもこの調子である。現代の小説で同じように占いや物の怪を続々登場させたら、ホラー小説になってしまいそうだ。

P78

 

 

 

 

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嫉妬のために自制心を失った魂が勝手に生き霊になった」

「しかも僧たちによる加持祈祷をはねのけるほどのパワーがあった」

「生き霊になった時、本人は失神していて、目が覚めたら護摩に使った芥子のにおいが体にしみついていた」

 

 

まさしく    ほら あ