日本の「医療史」 1

『日本医療史』2006 新村拓 編

 

 

《病名》より

 

病 illness … 本人の不快・不調にもとづいて構成される概念

 

本人に自覚がなくても医学的な検査にもとづいて医師が病気であると宣告するとき それは疾病 disease になると言われている

 

平安中期の類書的字書『和名抄』巻三には 病名70と瘡類45 合わせて115の病名(病名に該当しないものも含む)が記載されている…同書 序文には「俗に近く事に便ならしめる」ために作る とあり 病名に制限が加えられ 採択されたとみられる

 

10世紀末に針博士丹波康頼により編纂された『医心方』には 多くの病名が記載されていて…全三〇巻のうち風病に始まり小児病に終わる巻三より巻二五までをみると 病名の数は878

同書は医科全書とも言うべきもので、中国の医書二四八部から抄出された文から構成されており、その骨格は隋の『諸病源候論』、唐の『千金要方』『外台秘要方』の三書に依っている。和名の記載はなく、病名も漢語のままであり、平安貴族の間に蔓延していた物怪(もののけ)についても触れていない。医学の知を体系化させた『医心方』は大部なものであるため、およそ1世紀後に「率爾(そつじ)の疾類に便あらしめん」として侍医の丹波雅忠が『医略抄』を著わしているが、その後の官医の著作には『医心方』の影響が色濃く及んでいる。『医心方』に記載のないものは病気とみなされなかったのではないかと思われる。

 

時代とともに病名は (杉田玄白)「漢医のならはしにて、病門を多く分」ってきていて…「患者の意を安んじて落着」させることに役立つだけのものであり 病因の条理を明らかにしないままで病名だけを増やすことは無益無実なこと(『形影夜話』巻下 1802年)  

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《増え続ける病名》

 

玄白が批判した漢医、すなわち中国医学というものは疾病を固定的実体的に捉えるものではない。体内を流れる気血の異常、時間とともに変化する徴候を症候群として把握するとともに、診断法においても体の表面に現れた変化、病人の全身状態の読み取りに重きが置かれているため、病名そのものについての関心は西洋医学ほどにはないとも言える。

 

これに対して解剖知識を駆使して器質的な病変、実体としての特定できる局所的な病因の追求に執念を燃やす西洋医学のほうは、19世紀以後の急速な診断・検査技術の進歩と医療の専門分化によって病名数を飛躍的に増やし、今日ではWHO(世界保健機関)の定める「疾病及び関連保健問題の国際統計分類第10回修正」によれば、その項目数は約1万4000を数えるに至っている。

 

・患者数… 1953年の推計270万人が 2002年には同793万人となり

総人口比にして3.1%が6.2%になっている(1955年厚生行政基礎調査 200年患者調査)

・医師数… 1953年8万9800人が 2002年25万2700人と2.8倍(医師・歯科医師・薬剤師調査)

 

近世後期の随筆『世事見聞録』巻三に言われていた現実…「往古大同の頃は、病の数少なく……後世に成に随ひ疾病も増し薬法も増し、医者も増し病人も増也……廃人も多く出来、種々の売薬も多く出来る也」が 今も変わっていないことを思い知らされる

 

現代では病因についての考えもさまざまで、たとえば、現代病のひとつであるアレルギー性疾患は、抗原の侵入を認知したリンパ球の防衛行動により引き起こされる生体に有害な反応ということになっているから、抗原となる病原微生物や化学物質、動植物のタンパク質を病因と考えることもできるし、体に備わっている免疫システム、抗原を排除するために体内で産出された抗体そのものを病因であると言うこともできる病である。 

人の設計図にあたる2万個以上の遺伝子の解析技術が進めば、病因は発病にかかわる遺伝子と抑制に関わる遺伝子における関係性、あるいは遺伝子に影響を与える環境との関係性に集約され、人間そのものが病因となるかもしれない。

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《病因観》より

 

前近代社会におけるおおまかな病因

 

「飲食の招く」もの 「口より入る」もの 「過去に造れる罪か、若しくは現前に犯せる過ちによる」もの(『万葉集』巻五「沈痾自哀文」)

 

「先世の業」によるもの(『平家物語』巻三)

 

「習(ならい)に従ふ」もの(『発心集八七話』)

 

「天ノ病マシム」る天刑病(『医談抄』)

 

「仏神ノ冥罰アリ、或ハ食物ニヨリ、或ハ四大不調ニ依ル」もの(『頓医抄』巻三四)

 

「風寒ノナヤマストコロ」のもの 「疫神ノナストコロ」のもの(『最須敬重絵詞(さいすきょうじゅうえことば)』一七段)

 

「心より受く、外より来る病少し」(『徒然草』一ニ九段)

「風にあたり、湿にふして、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり」(『徒然草』一七一段)

 

宿業(しゅくごう)やさまざまなものによる憑依(『源氏物語』『今昔物語集』)

などいろいろ

 

基本的には陰陽、虚実、寒熱の平衡の崩れである、と医書は説いている。宋の『三因極一病証方論』のように病因を、七情(強い情動)が心身の変調をもたらすとする内因、六気(寒・熱・湿などの環境因子)が体内を巡行する気血に変調をもたらすとする外因、飽食や疲労といった生活面での不摂生、不慮の事故などを内容とする内外因、の三つに分類するものもある。

 

そのように病因は宗教的なものから世俗的なもの

自然に由来するものまで幅の広さをみせている 

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《治療法》

 

病因それぞれに対応する個別的な処置

 

たとえば、仏罰・神罰が病因とされるとき、懺悔や経典読誦(きょうてんどくじゅ)、修法、祓い、放生(ほうじょう)、斎戒善行、償いなどが主治療となり、医療的な措置はその後に行われる健康回復のための補助的な手段となっている。

 

さらに四大(身体の構成要素である地大・水大・火大・風大)の不順や「行役し食飲して患を致す」ことが病因であれば、方薬が用いられ、「座禅調(ととの)はずして患を致す」のであれば、座禅をもって息観(呼吸調整)を行い、鬼神や魔に因るものであれば「深き観行の力および大神呪(だいしんじゅ)」を用い、「先世の業、あるいは今世の破戒が先世の業を動かし、業の力が病を成ずる」という業病であれば、「内には観をもちひ、外には懺悔をもち」いることが求められ(『摩訶止観』巻八上)、また刀傷には血止薬や気付薬(『言継卿記(ときつぐきょうき)』文禄二〈1593〉年)四月、天正一四〈1586〉年七月)、白内障には銅筋を用いた手術(『鹿苑日録(ろくおんにちろく)』明応八〈1499〉年四月)といった具合である。

 

古代の医書によれば 発病の部位と治療法は形(肉体)と志(精神)との関係において決まるという。すなわち、「形楽志苦」という心身の状態にならば、病は脈にあるため灸刺を用いる。「形苦志楽」であれば病は筋にあるため熨引(塗薬・按摩)を、「形楽志楽」であれば病は肉にあるため針石を、「形苦志苦」であれば病は咽喉にあるため薬を、それぞれ用いるとし、さらに人が依拠しているのは形であり、和気を乱すものは病であるとした上で、煩毒を治めるものは薬であり、命を済い厄を扶けるものは医である。身を安んずるの本は必ず食により、疾を救うの要は必ず薬による。食の宜しきを知らざるものは命を長らえることはできず、薬の禁忌を明らかにせざるものは病を除くことができない。医師は食をもって病を治し、食療して癒えることがなければ、しかる後に薬を用いるようにしなければならないとある(『医心方』巻一)。 

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数ある病因と治療法の組み合わせの中からの選択において

育った環境や文化的な背景が大きな決定要因になる

 

(その意味において) 「医療は文化を凝縮したものと言える」

 

 

 

《看病》

 

前近代の社会においては、医療は医師に限られていたわけではなく、明治政府が医業類似行為として投薬や診断を禁じて取り締まりの対象とした鍼灸・按摩・指圧の施術者や、同じく明治政府が「警察犯処罰令」をもって取り締まることになった神水(しんすい)や護符を用いた呪術・信仰治療的な行為者、あるいは売薬の商人らも医療者として認知されており、多元的な医療が展開されていたのである。

 

近代後期…「医療技術の未熟な時代」には「看病に優る治療はなく 看病のあり方が病の行く末を決定づける」ことにもなった

 

「医者三分に看病七分」(『病家須知』第六/医師 平野重誠)

 

近代に入れば、軍医総監石黒忠悳ただのりが「病の治療に十の力を要するとすれば、医師の力が五、薬剤と食物が三、看護婦の力が二」と述べ、看病の評価は相対的に下がることになったものの、医療の一翼を担うものとして認識されている(『懐旧九十年』第五)。

 

しかし、その看病が仏罰・神罰といった反社会的・倫理的な行動による報いであったり、あるいは近世近代における結核や一部の精神病においてみられた「家筋(いえすじ)」の病とされるとき、人びとの病人に対する同情は薄くなり、看病の質は低下する。看病どころか社会的に差別され、通婚忌避や住む所を追い出されることにもなった。

 

さらには病や出血、絶息を始点とする死から発生すると思われていたケガレに触れるのを恐れて、臨死の病人が家の外へ運び出され、寺や辻堂(『園太暦』延文二〈1357〉年閏七月ほか)、屋敷内外に造作された仮屋(『台記』)久寿元〈1154〉年四月ほか)、あるいは道端や河原、墓場といった所で最期を迎えさせられたり(『類聚三代格』巻一九、弘仁四〈813〉年太政官符、『今昔物語集』巻二六第二〇ほか)、「清目きよめ」と呼ばれる「非人」「河原者」に引き取られるといった(『建内記』嘉吉元〈1441〉年三月ほか)、病人遺棄の光景が古代より中世末に至るまで広くみられた。 15

 

 

 

《臨終看護》

 

(そんな中にあって) 平安中期 極楽浄土への往生を志向する念仏結社の講衆が取り決めた臨終看護のあり方は特異なものだった

 

そこでは不浄やケガレを厭うことなく、最期まで看病に務めることが看護者に求められている(『横川首楞厳院二十五三昧起請』)。仏徳によってケガレから生じる災厄を免れることができるという信念も示されている。結社が定めた臨終看護のあり方は、その後、鎌倉期の『看病用心鈔』を初めとして『永平小清規』『臨終行儀注記』『臨終用意事』『一期大要秘密集』『病中修業記』などの記述にみるように、各宗派に受け入れられ、さらに俗書にも採り入れられて庶民の間に定着をみることになった。それらに共通した内容としては、まず看病人は身体的精神的なケアに務めること、告知をした上で病人に往生を願い求める心をかき立たせること、病人を無常院・延寿堂・重病閣などと呼ばれるホスピス(ビハーラ)施設に入れるか、日常の生活空間とは異なる閑静な場所に移して看病をすること、終末期には除痛の行為を除いて、延命のための医療を行わないことなどである。

 

この極楽浄土という彼岸の世界を視野に入れた臨終看護も 明治を迎え

 

廃仏毀釈にみられる人びとの仏教離れ

・政府による医学の西洋化

・伝統医学の否定による医療体系の一元化

・医師資格制度(医師の名称独占と医行為についての業務独占)の導入

・医師による死亡診断書の提出の義務化政策

 

などにより 大きく変質を遂げる

 

すなわち、看取りの主体は家族・親族・隣組・信仰仲間ではなく、往診医や派出看護婦といった医療者に移り、さらに西洋医が奉じた『医戒』(杉田成卿訳、1849年)、あるいは近代の看護学書(『通俗看病学』1899年ほか)が命じているように、告知を禁じてパターナリズム(医師が父親的な立場から患者の自己決定に干渉し否定すること)に徹し、延命のみに努める医療が推進され、精神面におけるケアはどんどん後退していくことになった。

 

 

 

《病院医療から在宅医療へ》

 

戦後 高度経済成長 核家族化 地縁の希薄化

 

すぐに病院に頼る心性が生まれ 開業医の往診もなくなり 医療の現場は病院へ移り…

 

1977年以降は病院死が在宅死を上回り 病院医療の進行は国民医療費を大幅に押し上げ…国家財政の硬直化を緩和させるための措置は1960年代末に始まっている

 

1985年 第一次医療法改正で地域医療計画導入 病床の増加に歯止めをかけ 病院数は1990年の1万96をピークに減少の一途をたどり 病院の機能分化も進行中

 

1992年の改正老人保健法施行による老人訪問看護制度を起点とする訪問診療体制の構築と 在宅介護を基本とする介護保健法の施行(2000年4月)  

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