ゴテン

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小石川御薬園享保時代の地図 東京大学


小石川植物園の敷地は承応元(1652)年に館林藩下屋敷が設けられたところで、白山御殿と呼ばれ、幼い藩主松平徳松の居邸であった。

徳松が5代将軍綱吉となって後、貞享元(1684)年に、現在の南麻布にあった幕府の南薬園が廃止され、白山御殿の敷地の一部が新たに薬園とされて「小石川御薬園」と呼ばれるようになった。

8代将軍吉宗の享保6(1721)年に御薬園が御殿地全体に拡張され、面積約4万5千坪のほぼ現在の植物園の形となった(地図参照)。 御薬園は御番医師の木下道円が管理していたが、芥川小野寺元風と交代した。さらに享保の拡張にともない、精子発見のイチョウのすぐ西側あたりを境として、西北側半分を芥川小野寺、東南側半分を岡田利左衛門が管理することとなった。 それぞれの屋敷には御薬種干場(乾薬場)があり、園内で生産された薬草を干して調整するために用いられていた。 岡田利左衛門の管理地内には享保7年12月(新暦1723年1月)に施薬院(養生所)が設けられ、享保20(1735)年には青木昆陽によるサツマイモ(甘藷)の試作が行われた。 御薬園は時代とともに衰退し、幕末の頃には5千百坪にまで縮小した。 しかし、明治維新により「大学病院附属御薬園」として東京府の所轄となるにあたり、ほぼ享保時代の敷地に復活された。

 

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「南」南東か  の「池」か何か? 

もうひとり    (その人物のほうは何度か園に入っているのでは と先日耳に)

欠片・・     (「綱吉」「護国寺」) 滑らかな語り