ギンコー など

ケンペルはヨーロッパにイチョウを紹介したとき ギンコー ginkgo という言葉を使った

奇妙な綴りの単語を使ったことについては諸説あり

 

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「銀杏」の 仮名

 

15世紀から18世紀に日本で出版された辞書や書籍で調べた堀志保美と堀輝三の発見

「銀杏」の読み方は、ほぼすべての文献で「イチョウ」または「ギンナン」あるいはそれによく似た発音が記されているが

ケンペルが滞在していたころ広く使われていた17世紀の絵入り辞書二点においてのみ「ギンキョー(ginkyo)」という読み方が載っていた

1617年から1619年ごろに再版された辞書『下学集』には銀杏の発音として「イチョウ」と「ギンキョー」が載っており

1666年に出版された『訓蒙図彙』には「ギンナン」と「ギンキョー」が載っている 252

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ginkgoの二番目の g

ドイツ北部の方言では ヤ ユ ヨの音を g で書き表すことが多い(例えば「ユット」と聞こえた単語を「gut」と書く 253

堀たちは ケンペルが意図的にスペルを採用した可能性を指摘

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ケンペルは1716年11月2日に死去(彼のコレクションは売りに出された)

それに飛びついたのが、裕福で知識欲に富む啓蒙時代の科学のパトロン、ハンス・スローンである。エンゲベルト・ケンペルとその仕事をだれよりも確実に伝えたのは、スローンだった。スローンのおかげで、イチョウと日本についての貴重な情報源となったケンペルのコレクションは、歴史に埋もれることなくロンドンにやってきて保存された。

 

スローンは とりわけ植物に関心が深かった

 

彼はイギリス南部とフランス南部で植物を集め、植民地総督アルベマール公爵つきの医者として15か月を過ごしたジャマイカでも植物収集に熱をあげた。1689年に西インド諸島から帰国したときには、800点の乾燥植物標本を携え、大部の二巻本になるほど豊富な知識を得ていた。彼がイギリスを離れているあいだに、カトリックの国王ジェイムズ二世はプロテスタントのオレンジ公ウィリアム〔オラニエ公ウィレム〕に入れ替わっていた。

 

ロンドンに戻ったスローンはブルームズベリーで開業医となり、当時の有力者や金持ちを患者に抱えた。おかげでスローン自身も有名になり、金持ちになり、影響力をもつようになった。1685年に王立協会に選出され、1693年に同会の事務総長となり、1696年にはジャマイカで出合った植物を網羅した『植物目録』を出版した。それ以上に有名な二巻ものの『ジャマイカの自然史』は、1707年と1725年に世に出た。植物について語った第一巻には、チョコレートの効用について英語で書かれた初の記録が載っている。1719年、スローンは王立内科医協会の会長となり、1735年までその役職を務めた。1727年には、アイザック・ニュートンの跡をついで王立協会会長に就任している。 254

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スローンは 1660年4月16日/北アイルランドのダウン州 Killyleagh 生まれ

18歳でロンドンにやってきて 翌年医学の勉強をはじめる 370

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スローンはジャマイカに1687年から1689年までいて(Sloane,1696;1707-1725)

現地で水と混ぜて飲み物にしていたチョコレートの効用について記録

スローンはチョコレートをミルクと混ぜたほうがおいしいことを発見し、そのレシピはキャドバリー兄弟により「サー・ハンス・スローンのミルクチョコレート」として模倣された。イギリスの科学学術団体である王立協会は、国王チャールズ2世時代の1660年に設立された。この会は、1663年にチャールズ2世の2度目の特許状を得たあと、自然科学の知識向上のためのロンドンの王立協会と名づけられた。創始者には建築家クリストファー・レン、化学者ロバート・ボイル、医師で哲学者のジョン・ロック、実験家、顕微鏡学者にして天文学者のロバート・フック、初期の解剖学者で植物生理学者のネヘミア・グルーなどがいた。グルーは動植物の構造上の詳細を観察するために顕微鏡を使った第一世代である。基礎を築いた初期の研究員には植物学者のジョン・イーヴリンとジョン・レイがいた。とくにレイは、スローンに多大な影響を与えた。スローンは1727年から1741年まで王立協会の会長を務め、当時の有力な科学後援者となった。 (原注 P369)

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オランダの職人、学者、芸術家、商人は長きにわたってイギリスに組みこまれており、その影響はオランダ語由来の英語(ヨット、スケッチ、ランドスケープなど)が多くあることに表れている。

名誉革命と当時のオランダとイギリスの関係については Jardine(2008)

P370イチョウ 奇跡の2億年史』

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