いおう

 

3 チョット アレデす  イロイロ のぞいて かつ のぞかない ような

  昨夕 散歩時に のこされた場所で花摘みを少々しまして    あれやこれや 

  29のページが長くなりましたが つづきとともに 後日  ですか

 

 

 2 ちょっと あれで  いろいろとあれしているような感覚は あるようなのですが・・・・

  書いていることも へんですねえ

  昨日 「過去」検索などにそーとー没頭後 シカをとばしていることに気づき 電話をいれ(汗

  2朝 なんと あけておられるようで みていただくことに      んー ーΩ\ζー どうか いけますように  たどりつけた

  麻酔なしの ぎりぎりの(手探りなど) 丁寧な処置の後・・根のつめものは すんだようす

  確認のためか レントゲンも一枚   あー ショチというときに 少しだけミギにかたむけてといわれ・・ いままではなかった

 

そんなことで シカ後 昼頃

何かのあれは すぎました? かどうか・・ですが くっきりしてきたような 眼のあたり

 

(花の)「青」の 意 - 水 29の「ほかにもなにか あるのか ないのか」のあたりをみて  

(イノウ隊のところから) 午後に その頁の下部に入れました

・・・・・・・・・・ 

 

 

かざん

 

 

 「火山」という言葉  何に由来するのだろう

その言葉は「江戸時代以前には一般的には知られず、明治に入ってから使われ始めたらしい」

  1886年(明治一九年)に第3版が刊行された『和英英和語林集成』には、英語の volcano の 和訳としてKwazan(火山)が挙げられている。ここでは yakeyama(焼け山)、Kwazan、Hinoyama(火の山)という三つの訳語を載せている。

   1891年に跋文が書かれている『言海』では、「くわざん(火山)」の項に、「山ノ絶頂、或ハ、山腹ナドヨリ、常二、火煙、水蒸気等ヲ噴クモノ。ヤケヤマ。噴火山」とある。『言海』は日本初の近代的な国語辞典であるが、「くわざん」は載っているが、「やけやま」「ひのやま」は出ていない。

  なお、1603年(慶長八年)に出版された『日葡辞書』には、「くわざん」「やけやま」「ひのやま」のいずれの訳語も見あたらない。明治になってから、火山という言葉が一般に普及したようだ。 5

『マグマの地球科学』2008

 

 

火山  volcano より

「地殻の深部にあったマグマが地表または水中に噴出することによってできる」地形

山だけでなく カルデラのような凹地形も火山と呼

マグマが上昇して地表に出る現象が噴火…火山噴出物の成分や火山噴出物の量

「壊滅的な打撃」を与えてきたため「記録や伝承に残されることが多い。」

Volcano は、ローマ神話で火と冶金と鍛治の神ウルカヌス(ギリシア神話ではヘーパイストス)に由来し、16世紀のイタリア語で volcano または vulcano と使われていたものが、ヨーロッパ諸国語に入った。このウルカヌス(英語読みではヴァルカン)は、イタリアのエトナ火山の下に冶金場をもつと信じられていた。シチリア島近くのヴルカーノ島の名も、これに由来する。

日本で volcano の訳として「火山」の語が広く用いられるようになったのは 明治以降  Wikipedia

 

 

 

マグマ magma    地球や惑星を構成する固体が溶融したもの

地球のマントルや地殻は主にケイ酸塩鉱物でできている

その溶融物であるマグマも一般にケイ酸塩主体の組成を持つ

稀に「炭酸塩」鉱物を主体とするマグマも存在する

岩漿(がんしょう)ともいう

英語の magma は ギリシャ語の μάγμα (糊の意)からきている  Wikipedia

 

 

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自然硫黄(native sulfur、sulfur)

化学組成は S(硫黄)、結晶系は斜方晶系であり、自然硫黄の多形で単斜晶系(γ-硫黄に相当)のものはロシキーアイト(Rosickýite)という独立した鉱物として扱われる。

火山の噴気孔では、火山性ガスに含まれる硫化水素と二酸化硫黄が冷却することにより自然硫黄が生成している。

神奈川県箱根の大涌谷や栃木県那須の茶臼岳など

噴気孔で産する自然硫黄は急速に冷却されて結晶が成長するため、しばしば骸晶となっていることがある。 温泉(硫黄泉)では、硫黄が昇華した硫黄華や、湯の花としてコロイド状硫黄が見られ、白く濁って見える。 単体硫黄を産出することで古来から有名なイタリアのシチリア島では、方解石や石膏の隙間に自然硫黄の結晶が成長しており、石膏等の硫酸塩鉱物やその他の硫化鉱物がゆっくりと変質して自然硫黄が分離したものだと考えられている。

かつては様々な分野の工業原料として盛んに採掘されていた

現在は石油精製の脱硫による副産物として大量の硫黄が供給されている

日本では火山が多いため、火口付近に露出する硫黄を露天掘りが容易であったことから硫黄採掘の歴史は古く、早くも8世紀の『続日本紀』には信濃国(長野県米子鉱山)から朝廷へ硫黄の献上があったことが記されている。

鉄砲の伝来により、火薬の材料として中世以降、日本各地の硫黄鉱山開発が活発になった。

江戸時代には硫黄付け木として火を起こすのに用いられた。

知床硫黄山の噴煙 明治期の産業革命に至り、鉱山開発は本格化する。

純度の高い国産硫黄は、マッチ(当時の主要輸出品目)の材料に大量に用いられ、各地の鉱山開発に拍車が掛かった。

1889年には知床硫黄山が噴火と共にほぼ純度100%の溶解硫黄を大量に噴出した。硫黄は沢伝いに海まで流下し、当時未踏の地だった同地に鉱業関係者が殺到したという。 昭和20年代の朝鮮戦争時には、硫黄価格がつり上がり「黄色いダイヤ」と呼ばれ、鉱工業の花形に成長する。

昭和30年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となり、生産方法は一変する。エネルギー転換に加え、大気汚染の規制が強化されたことから、石油の副生成物である硫黄の生産も急増。硫黄の生産者価格の下落は続き、昭和40年代半ばには国内の硫黄鉱山は、全て閉山に追い込まれた(岩手県松尾鉱山など)。

海外ではハーマン・フラッシュが1891年に開発した165℃の過熱水蒸気を鉱床に吹き込み硫黄を回収するフラッシュ法で、アメリカ合衆国テキサス州ルイジアナ州、メキシコ、チリ、南アフリカ共和国の鉱山で大量に採掘される。この方法は、上記の火山性ガスからの硫黄の析出の逆反応である。取り出されたガスを冷やすと硫黄が析出する。 3 S + 2 H2O → 2 H2S + SO2 (高温で進行)

2 H2S + SO2 → 3 S + 2H2O (低温で進行)     wikipedia

 

 

硫黄(英: sulfur, 羅: sulphur)

原子番号 16、原子量 32.1 の元素である。元素記号は S。酸素族元素の一つ。多くの同素体や結晶多形が存在し、融点、密度はそれぞれ異なる。沸点 444.674 ℃。

大昔から自然界において存在が知られており 発見者は不明になっている

硫黄の英名 sulfur は ラテン語で「燃える石」を意味する言葉に語源を持っている…

 

天然には数多くの硫黄鉱物(硫化鉱物、硫酸塩鉱物)として産出する。単体でも産出する(自然硫黄)。深海では熱水噴出口付近で鉄などの金属と結合した硫化物や温泉(硫黄泉)では硫黄が昇華した硫黄華や、湯の花としてコロイド状硫黄が見られ、白く濁って見える。

そして人体では硫黄を含むシステイン必須アミノ酸メチオニンとして存在…

 

火山性ガスには硫化水素、二酸化硫黄が含まれ、それが冷えると硫黄が析出する。これを応用したのが昇華硫黄(火口硫黄ともいう)であり、噴気孔から石で煙道を造り、内部に適宜石を入れて、この石に昇華した硫黄を付着させる採取法であった。ガスから分離し、煙道内に溜まった硫黄は最初の内は液状であるが、温度の低下に伴い次第に粘度を増してゆき、採取口に近づく頃にはほぼ固化した状態で純度の高い硫黄が得られた。那須岳雌阿寒岳九重山などの活火山ではこのような方法で硫黄採掘に従事する鉱山が点在していた。

これとは別に、鉱床から得られる硫黄も存在しており、こちらは採掘・選鉱した後、製錬所において焼き釜に鉱石を入れて硫黄分を溶出させていた。 2 H2S + SO2 → 3 S + 2 H2O 単体硫黄を産出することで、古来からイタリアのシチリア島が有名である。また現代ではハーマン・フラッシュが1891年に開発した、165 °Cの過熱水蒸気を鉱床に吹き込み硫黄をガスとして回収するフラッシュ法で、アメリカのテキサス州ルイジアナ州、メキシコ、チリ、南アフリカの鉱山で大量に採掘される。取り出されたガスを冷やすと硫黄が析出する。この方法は、上記の火山性ガスからの硫黄の析出の逆反応である。 3 S + 2 H2O → 2 H2S + SO2(高温で進行)2 H2S + SO2 → 3 S + 2H2O(低温で進行) この他に、火口湖の湖底から硫黄を採取する方法も取られた。この場合は、湖上に浚渫船を浮かべ、湖底に沈殿している硫黄分を多く含む泥を採取していた。 また石油精製の脱硫による副産物として大量の硫黄が供給されている

 

日本には火山が多く、火口付近に露出する硫黄を露天掘りにより容易に採掘することが可能であることから、古くから硫黄の生産が行われ、8世紀の「続日本紀」には信濃国(長野県米子鉱山)から朝廷へ硫黄の献上があったことが記されている。

鉄砲の伝来により火薬の材料として、中世以降は日本各地の硫黄鉱山開発が活発になった。

江戸時代には硫黄付け木として火を起こすのに用いられた。

明治期の産業革命に至り鉱山開発は本格化する。

明治時代においては安田財閥は釧路の硫黄(アトサヌプリ#硫黄鉱山を参照)で築かれたと揶揄されるほどであった。

純度の高い国産硫黄は、マッチ(当時の主要輸出品目)の材料に大量に用いられ、各地の鉱山開発に拍車が掛かった。1889年には知床硫黄山が噴火と共にほぼ純度100 %の溶解硫黄を沢伝いに海まで流出させるほど大量に産出したため、当時未踏の地だった同地に鉱業関係者が殺到したという。海軍軍人郡司成忠による1893年(明治26年)第一次千島拓殖にも硫黄採掘の記録がある。 昭和20年代の朝鮮戦争時には「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰し、鉱工業の花形に成長したが、昭和30年代に入ると資源の枯渇に加え、石油の脱硫装置からの硫黄生産が可能となったことで生産方法は一変する。エネルギー転換に加え大気汚染の規制が強化されたことから、石油精製の過程で発生する硫黄の生産も急増し、硫黄の生産者価格の下落が続いた結果、昭和40年代半ばには国内の硫黄鉱山は全て閉山に追い込まれた(岩手県松尾鉱山など)。

 

現在、国内に流通している硫黄は、全量が脱硫装置起源のものである。

 

…一部の光合成・化学合成細菌では、硫化水素が水の代わりに電子供与体として使われる。多くの生物の電子伝達系で、硫黄と鉄からなる鉄-硫黄クラスターが働いている(フェレドキシンなど)。また呼吸鎖のシトクロムc酸化酵素の銅中心 CuA にも含まれる。

 

 

アトサヌプリ

北海道弟子屈町にある第四紀火山 標高は512m 活火山に指定されている

黄山(いおうざん)とも呼ばれる。 硫黄山の名は、狭義には明治年間にアトサヌプリの麓にあった硫黄の鉱山のみを指すことがある。当山付近をさす地名には「跡佐登」の字を用いる。 アトサヌプリの名は、アイヌ語の「アトゥサ」(atusa, 裸である)と「ヌプリ」(nupuri, 山)に由来する。つまり「裸の山」の意である。アイヌ語研究者で自身もアイヌであった知里真志保によれば、北海道、南千島において、熔岩や硫黄に覆われた火山を、アイヌは atusa-nupuri と呼んだ。硫黄鉱山[編集] アトサヌプリの硫黄鉱山は、明治時代の士族反乱西南戦争等)における国事犯収容施設(集治監)の建設、北海道開拓の停滞を打破したい開拓使の方針、安田財閥による鉱山開発の意向など様々な思惑が結びついて開発されたものである。鉱山としての命脈はわずかな期間であったが、集治監の設置や鉄道の建設などを通じ行われたインフラの整備は、後の釧路地方開発の礎となった。採掘した鉱石の積み出しは、アトサヌプリの東麓に敷設された鉄道により行われた。  Wikipedia

 

 

 

硫黄(いおう)の意味・語源・由来 より

... 『和名抄』には「硫黄」に「ユノアワ」の訓があることから

「ユアワ(湯泡)」が転じて「ユワウ(ユオウ)」となり

「イオウ」になったといわれ…

 

「硫」は「石」と「流」

火山の噴火物が流れて生じる鉱物 漢音では「リュウ(リウ)」 呉音では「ル」と発音

日本化して「ユ」と発音し、「黄」の呉音「オウ(ワウ)」から「ユワウ(ユオウ)」となり

「イオウ」になったとする説も…

 

 

 

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火山の名について   寺田寅彦

 

 

なんだか 長いままですがこのままあれします  ・・すごく 睡魔があれで

睡眠をとりたいわけでもないようで 半寝のような数時間   起きていても 同様

 

(皮膚の状態が 回復してきているように みえ    そういうことも)

 

地球や惑星を構成する固体が溶融したもの」とか そういうなにかをみるときに

かぎりなく 0の近くで ということなのかな?

  

「…隕石の可能性のある約13キロのサンプルを発見した」

…専門家らは、砂漠から持ち出されたサンプルのおよそ80%が実際に地球外に起源を持っていると考えており、地質学者らは隕石のような物質の年齢は太陽系と同年代…

 

そういうのも

 

 

ニューハンプシャー州 ですか

 

ニューハンプシャー州 Wikipedia より

 

地震

ニューハンプシャー州ニューイングランドの他地域とともにあまり地震を経験しないが、過去には何度か地震が起こり、特にカナダのセントローレンス・バレー地震帯やマサチューセッツ州北部地震帯を震央とする大きな地震もあった。

1663年にケベック州メイン州の州境近くを震源とするシャルルボア地震ニューイングランド全域で感じられ、そのマグニチュードは7.3から7.9と推計されている。

1727年、マサチューセッツ州ニューベリーで大きな地震があり、ニューハンプシャー州でも感じられた。

1755年のケープアン地震マグニチュード5.5から6.0であり、州のほとんど全域で感じられた。

1810年11月9日、州内エグゼターでは震度6の揺れを観測した。このときは地域の下で爆発のような騒音があり、ポーツマスでは窓が割れた。

州都コンコードでは、1872年から1891年までの19年間に有感地震が続いた。

1872年遅くに起きた地震はコンコードで10秒間揺れ続け、ラコニアなど北部の町でも感じられた。その10年後にもコンコードで強い震動があり、ドーバーやピッツフィールドでは建物が揺れた。

1884年11月23日、まず軽い地震があり、その15分後に大きな地震があり、コンコードで感じられた。2回目の震動はマサチューセッツ州コネチカット州ニューヨーク州東部でも感じられた。この19年間の最後の地震は軽いものであり、マサチューセッツ州ケンブリッジメルローズの2か所でも観測された。 ニューハンプシャー州南東部とメイン州では1925年に地震が起こった。どちらの州も被害は少なかった。オシピー、タフトンボロ、エッフィンガムフォールズの町では、棚から皿や物品が投げ出された。

1929年、800マイル (1,280 km) 離れたニューファンドランド島グランドバンクでマグニチュード7.2の地震が起こったが、ニューハンプシャー州ではほとんど影響を受けなかった。

1935年、500マイル (800 km) 離れたオンタリオ州ティミスカミング地区でマグニチュード6.25の地震が起こり、250万 km2 の範囲で揺れが感じられた。ニューハンプシャー州のある場所では震度5だった。

1940年12月、オシピー湖で2つの中規模の地震があった。ニューイングランド全6州で感じられ、ニュージャージー州ペンシルベニア州の一部でも揺れがあった。震源では多くの余震があった。

1941年1月31日までに120回以上の余震を数えた。…