黒須紀一郎氏の著書 1

黒須紀一郎氏の著書
 
2014年4月18日 9時32分の記事 
 
 


「全ての存在は平等無差別である」という教え

 

「そのままが出現していた」 のかどうかということは 

それぞれの「そのまま」

 

 

婆娑羅 太平記 真言立川流』(黒須紀一郎 著)の あとがきより

「暗黒の中世・・・・・・これは、ヨーロッパの中世につけられた名称だが、日本の中世もかつては同様に呼ばれたことがあった。しかし、時代を文永・弘安の役から鎌倉幕府の崩壊、南北朝の戦乱、そして室町幕府の初期までに限っていえば、そこには、暗黒とは程遠い様相が出現してくる。 この時代は、まさしく分裂の時代であった。天皇家の分裂、宗教界の分裂が、まるで連鎖反応のように繰り返された。そして、これらの分裂の裂け目から躍り出てきたのが、娑婆羅であり、悪党であり、道々の輩であった。その中には、後醍醐天皇が、足利尊氏が、佐々木道誉が、高師直が、そして楠木正成、赤松円心、世阿弥、さらにこの書の主人公である文観弘真がいた。これらの人々に共通しているのは個性の強烈な輝きである。それゆえ、この時代は、「元寇」という刺激によってそれまで眠っていた個性が、一斉に開花したした時代であったともいえるのではないか。」

 

目覚めのタイミングで みたものも それぞれ・・

 


     *

 

「うむ、この宗派は、真言立川流という。ただし、この流派については、わしも詳しくは知らん。が、大まかなことはお前に話してやることが出来る。なぜ、お前にこの話をするのか。それはな、この立川流を究めれば、法力は三世(過去・現在・未来)に通じると言われておるからじゃ。欲箭をもって、この世の汚濁を切り開かんとすれば、途方もない力が要る。いずれ、お前もこの流派を究める機会に恵まれようが、その折は、命懸けで修行に当たれ。お前のなすべき衆生済度のためにじゃ」

(「和尚は、「命懸け」と「衆生済度」に力を込めた」)

 

「実際の世には、貴賎貧富の差がはびこっておる。わしらは、それを打ち破らねばならぬ。その力が欲箭じゃ。愛欲が異性に向かう力じゃ。文観よ、愛欲の矢をつがえて差別を射よ。それが、お前に課せられた衆生を救う道じゃ。」

(「和尚は「自分の知っているのは上っ面だけだがと断った上で」話始めた)

「今から二百年、いや百八、九十年前になろうかな、醍醐寺に仁寛阿闍梨という立派な僧正がおいでになった・・・・・・」

「仁寛は名門の出であった。父は村上源氏左大臣俊房であり、二番目の兄勝覚は醍醐三宝権僧正という地位にあった。仁寛は、その俊秀ぶりにより、後三条天皇の第三子輔仁親王の護持僧となったが、親王皇位継承問題に巻き込まれて流罪となり、伊豆へ流された。この地で仁寛が布教に努めたのが立川流の始まりだといわれている。この仁寛に、武蔵国立川から来た一人の陰陽師が弟子入りした。見蓮という名であったという説もある。仁寛はやがて、伊豆大仁の岩頭から投身自殺をとげる。師の衣鉢を継いだ陰陽師は、畿内に上がり、大いにこの流派を広めた。」

「大きい声では言えぬがな、真言の九割がこの流派の信者だという話じゃ」

「だがな、表立ってそれを言う者は少ない。奥の院に秘して、こっそりと赤白二渧二根交会を行っておるんじゃ。ところがじゃ、西大寺の道順さまだけは違う。若いがなかなかの肝っ玉の座ったお人でな、西大寺の僧正という要職にありながら、捨て聖に身を落として勧進をつづけ、同時に立川流を広めておいでじゃ。道順さまこそ、醍醐三宝院の始祖にして、仁寛阿闍梨の兄でもある勝覚さまの血脈を継ぐ嫡系じゃ」

「道順さまは、ご家系もよい。しかも、勝れた験力をお持ちじゃ。いずれ、大僧正となられ、醍醐寺西大寺の座主となられよう。わしは、お前をこの道順さまの許に弟子入りさせようと思っておる。立川流の伝法灌頂を授けられるのは、今のところ道順さまを置いてほかにはなかろう」

「こ、このわたしを道順さまのお弟子に!」(文観)

 


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あれー!

 女の悲鳴が、周囲の木々にこだました。しかし、和尚は一向に斟酌する様子もない。


和尚は、白い脛を顕にして暴れる女をものともせず、肩に担ぐと来た坂を上り始めた。


観念したのかと思ったが、そのようにも見えなかった。


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「あれー!」 (「女捕りだ」) というようなシーンが数箇所あります

「娶る」といいいますが    字のつくり

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「では、この間、女捕りした二人も、和尚さまの相方であったのですか」

「うむ、相方というよりは、わしの信者ということじゃな」

「信者? では、ほかにも・・・・・・」

「勿論じゃ。大和だけではない、各地各所におる。ほれ、二年前、お前が大和へ上がってくる途中、須磨で西施という遊女の座頭に逢うたじゃろう。あれも、わしの信者じゃ。どうだ、わしを見直したたか」

 

「では、どうして、女たちは女捕られる時に、ああして大声をあげたのですか」

「ほう、あれかいの。あれはじゃな、媾合いに至る儀式というところかな。女というものはな、どんな場合でも、段取りちゅものが要るのよ。あれがなくては、女は妙適清浄へ入れぬのよ。しかし、それを億劫がってはならぬぞ。互いが溶け合うには、そこに至る儀式が要るのじゃ」

「では、あの悲鳴は、儀式なのですか」

「そうじゃ、大事な儀式じゃ」

 

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「儀式」という箇所に力を込めた と 著者さんは添えられています

 

 

どのような境地かは 存じませんが
あれがなくてはならぬ といったことを 演技も込みでなさっていた

(そんな ふるまい は 何処にでも)

 

「合意」という言葉が 真実か あるいは弁解などなのか  
耳にすることもありますような 今日この頃

 

 

奥の院」で「秘」して と     どのような意識でか


「密」 とも

 

 

輪廻転生のシステムなどが絡んでまいりますと 何が残りましょうか?


残っているものは なんでしょう

 

 

(2016.11.14 水のよう・・ から移動)