黒須紀一郎氏の著書 2


2014年4月21日 10時22分の記事

 

婆娑羅 太平記 真言立川流』より


文観の生まれた村

播磨国加古郡氷丘村大野(兵庫県加古川市大野)は加古川に沿って開けた村である。川はやがて播磨灘に注ぐ。」


「文観が、この世に生を享けた弘安元年の前後に、二つの国難が日本を襲った。文永の役(1274)と弘安の役(1281)である」

「当時、大元ウルスと呼ばれたモンゴルは、実に、東南アジアの一部から東アジア、ユーラシア大陸の殆どを版図とする巨大帝国であった。そして大ハーンは、有名なフビライであり、モンゴル皇帝中でも、東方にもっとも詳しい人物であった。」


(「詳しい」ことには理由があるのかもしれません)

 

     *   

 


ある日の昼下がりの光景

天王寺の門前は大変な賑わい」

「市の持つ集人力は物凄い」


「さまざまな異形異類ともいうべき者たちつも、流れの中で行きつ戻りつしている」

「高足駄を履いて長い棒を担ぎ、派手な衣装を着て、肩を揺すりながら歩いている男。これが今流行の婆娑羅(ばさら)という者かと、すれ違う人たちは一様に振り返って見る。かと思えば、錦織の直垂(ひたたれ)をまとい、腰には銀拵えの大刀を差した武士が、供を従えて、闊歩している。供の服装も、輸入の染料を用いたのか、濃紺の鮮やかな模様が浮き出ている。これなどは、婆娑羅の上をいく婆娑羅とでもいうべきか。いずれにしても、乞食や非人たちの風景とは、あまりにも落差が激しい。

 人ごみの中を、一人の僧が歩いていた。柿色の汚れた衣、草鞋も踵の方が擦り切れて半分ほどしかない。木製の小さな一輪車を引いている。そこには、橋の絵を描いたのぼりが括り付けられている。一見してそれと判る勧進僧だ。何処かの橋の架橋のために勧進して歩いているのであろう。年齢は、三十代にみえる。背丈は、五尺七、八寸(171~74センチ)と大きい。眉が太く、目も大きい。口元は引き締まり、精悍な顔つきである。恐らく、体軀は鋼(はがね)のように強靭なのであろう。それが薄い衣を通して窺える。しかし、これだけでは、雑踏の中で、この僧が目立つことはない。すれ違う誰もが目を見張るのは、僧が連れている女である。ごく薄い麻の小袖の上に、これも涼やかな小袿(こうちぎ)を掛け、着物の裾を帯にはさんでいる。被っているのは、市女笠(いちめがさ)である。この壺装束(つぼしょうぞく)といわれる旅の女装は、貴族か上流武家のものだが、女の笠の下から覗ける顔は、誰もが息を飲むほど美しい。色は透けて見えそうに白く、唇は赤く艶やかで、小さい。睫が長く、つぶらな瞳は憂いを含んで濡れている。その美女が、薄汚れた勧進僧に寄り添うようにして歩いているのだ。」

(「架橋」というのはポイントの一つでしたか)

 


陽が だいぶ西に傾いたころ

四天王寺から北へ四半里(約1キロメートル)ほど行った林の中」の寺

「市の喧騒が嘘のように静かだ」  山門をくぐり 堂内を見ると

「広い堂の中の半分は、人で占められていた」

「服装もさまざまだ。販女のような頭に布を巻いた女たちがいるかと思えば、立烏帽子に狩衣狩袴姿の貴公子らしい若者もいる。薄地の小袖を着、被衣(かずき)で顔を隠した垂髪の貴婦人、絹の衣の僧、黒色の衣の捨聖(すてひじり)もいる。他にも、派手な柄の衣裳をまとった悪党、白い布で覆面した神人(じにん)らしい男たちもいて、まさしく種々雑多な職種・階層の集まりである。」

「そして、奇妙なことに、男には必ず連れの女がいた」
「美女が多い」

「市」でみかけた「市女笠を取った壺装束の美女」もいて
その「女の表情は神々しいまでに美しい」


という要素などを交えての ストーリー仕立て

 

勧進僧は「寺僧がうやうやしく捧げてきた銅盤から、銅杓をもって油を掬い、歓喜天像の頂に注いだ。それを重ねること七度、終わってから徐に護摩木を手にし、壇へ投じた。」


「人形杵上下するは、男すなり。人形杵二は上下して男女冥合の一体となるなり」と言いつつ

勧進僧は また護摩木を投じ 両手で印を結び 
歓喜天真言を唱え・・  「ナムビヤ・・・(大幅に略)・・・」

「妙適清浄(みょうてきせうじょう)の句、是れ菩薩位(ぼさつのくらい)なり」
(大意「恍惚境は、清らかな菩薩の心である」)


(唱え文が続きますが (略))


半時(約一時間)経ち 読経が止まり

「赤白二渧二根交会(しゃくびゃくにたいにこんこうえ)」と 言い放つ


「赤色の阿字は母の淫、衆生の肉となる。白色の吽字は父の淫、是れまた衆生の骨となる。赤白二色の二つの阿・吽字は、胎蔵界金剛界両部の大日如来の因果常住の仏性なり」

ということのようで


(以下省略)

 

 

     *

 

(文観)「教えていただいた理趣経に、妙適清浄句がありますのに、なぜもう一方には不邪淫という戒律があるのですか。」

(捨和尚)「人間生きておれば誰しも安心立命を得たい、悟りの道に入りたい、仏と同化したい、そう思うものじゃ。弘法大師空海が唱えた即身成仏がそれじゃ。しかし、それには長く厳しい修行が必要となる・・・・・・」


「和尚は、修行には二つの道があると言った。一つは、修行の妨げとなる愛欲という煩悩を徹底的に抑えこむことである。抑えこめばこむほど、愛欲は度合いを濃くする。そして、僅かな隙間を見付けて吹き出そうとする。ちょうど、天高く吹き上がる噴水のようなものだと和尚は言った。この吹き上がる愛欲の力を利用して、即身成仏へと進む。不邪淫戒は、そのためにある。」

 

ということで 「二者択一」風のようでした

 


湧き上がる何かの勢いを利用してのことのようにもみえ

 

 

(隙間から沸き出でるものは無数でしょうか  せせらぎ音付のものでしたりも)

 


     *

     *

 


「辰砂は丹砂ともいい、水銀と硫黄の天然化合物である。熱すると、先ず硫黄が遊離する。更に熱すると、水銀も溶けて蒸気となる。その蒸気を冷却すれば、液体金属の水銀が出来る。水銀は融点が低いから、大抵の鉱物と化合して合金となる。金・銀・銅のメッキには、水銀はなくてはならない金属である。あの金色に輝く仏像も、水銀アマルガム法によって初めて可能となる。しかし、それだけではない。水銀は、古来から不老長寿の秘薬として貴族などに珍重され、中国へも輸出された。また、贅沢品である白粉(おしろい)も、実は水銀に塩を混ぜて焼いたものである。市などで、女たちが溜め息混じりに眺めているのも、白粉が高価だからである。

 良質な辰砂の産地としては、伊勢や吉野が有名だが、この播磨でも産出する。幕府、特に得宗家が西播磨を直轄地にしたのには、それだけの理由があるし、辰砂の産地に、黒田、楠木、赤松といった名立たる悪党が輩出したのも、それなりの理由があったのである。」

 


     *

 

参考文献は

『立川邪教とその社会的背景の研究』  守山聖真
『秘密経典・理趣経』           八田幸雄
『性愛の知恵』              石井恭二
『さとりの秘密・理趣経』        金岡秀友
『性の宗教』               笹間良彦
『加持祈祷秘密大全』           小野清秀
真言陀羅尼』              坂内龍雄
『日本の歴史・蒙古襲来』        黒田俊雄
『世界の歴史・大モンゴルの時代』   杉山正明・北川誠一
『異形の王権』              網野善彦
『中世の非人と遊女』          網野善彦
『結社と王権』              赤坂憲雄
『武蔵武士』               渡辺世祐・八代国治
『弓矢と刀剣』             近藤好和
密教の本』              学習研究社
真言密教の本』           学習研究社

とのことです  

 

 

 

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