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「六義園」と名付け 「むくさのその」と呼ばせた

和音

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注:文中の「?」は、疑問符を表す場合と、ローマ数字が反映されていないケース(携帯電話からの送付分)による表れがあります。

 

 

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2021.9.12

 

ka-on

六義園」と名付け 「むくさのその」と呼ばせた

 

2015年7月17日 13時22分の記事

 

 

 

 

六義園』1981 森守 著

東京公園協会監修・東京公園文庫 19 より

 

 

江戸時代は 十五代将軍徳川慶喜大政奉還によって ニ百六十有余年におよぶ大きな幕を降すこととなった

 

柳沢吉保によって作られた六義園もまた 七代保申(やすのぶ)の代に至り 明治新政府に上地され 百七十三年間にわたる柳沢家別邸も終りをつげた

 

明治維新直後の六義園については 何の資料も見出だすことができず どのような状態にあったかは定かではない)

 

 

明治11年(1878)に、時の風雲児、四国は土佐藩浪士の子、岩崎弥太郎が、この土地を買収、六義園を、岩崎家別邸として、昭和十三年(1938)、東京市に寄贈するまでの六十年間を占有するのである。

 

岩崎家は、明治七年(1874)九月に上京、今の文京区湯島4丁目に居をかまえ、六義園の地とは、目と鼻の先ほどの所に住んでいた。

 

 

 

六義園が岩崎家のものになったいきさつ

 

「……その後は、さしもの名園も次第に頽廃に傾き、維新後は全く荒蕪に帰したが、弥太郎は明治十一年、清澄庭園と同じ頃これを手に入れ、その後さらに隣接の藤堂・安藤・前田緒家の邸地を併せ、総計十二万坪(約三十九万六千平方メートル)を合してこゝに別邸を営んだ。その地域は現在の文京区上富士前町、同駕籠町及豊島区巣鴨ニ丁目、同駒込染井に跨がる広大な土地である。川田小一郎があまりに大きすぎるがどうするつもりかと尋ねたところ、弥太郎は「俺は板橋辺まで買い、国家の役に立つことをやってみるつもりだ」と語ったという。(中略)

 

六義園が弥太郎の在世中どの程度まで復旧工事を進めたかは明らかでないが、弥太郎の死後、弥之助(弥太郎の弟)は明治十九年(1886)に修復の工を進め、新たに下総の山林(後の「末広農場」)から樹木数万本を移植し、各地から庭石を集めて、往時の景観を復元した。また園内各所に瀟洒(しょうしゃ)な亭しゃ(木へんに射)を建て、六義館の跡には小邸を造築した。」

『岩崎久弥伝』(久弥は弥太郎の長男)

 

 

その後は長男久弥氏の代になり一時は本邸となったが 庭園部分を残して譲渡売却されていった

 

その分譲地が今の六義園を中心として

 

東側一帯の東洋文庫 理研等の所と

西側一帯 大和郷住宅地および北側一帯で

 

国電駒込駅を作り 山手線を布設する際に北側約三万坪(約十万平方メートル)を割愛したという

 

 

 

岩崎家時代の六義園

通常は静かな個人の別邸として使われていたものだろう…

 

 

(特筆すべきこと)

明治三十八年(1905)十月、日露戦争から凱旋した連合艦隊指令長官東郷平八郎大将をはじめとする将兵六千人を岩崎家が招待し、この六義園を中心として一大戦勝祝賀会を催したということである。それまで一般には公開されなかったこの六義園が、戦勝ということと久弥氏の国に対する思顧からか、初めて開放されたことは、庭園の持つ意義から重要な歴史的事実ということができる。その時の様子は、六千人の将兵が入ったにもかかわらず、十四万坪もの広大な敷地だったゆえ、「どこにあれほどの人が入ったのか、ちらりほらり、として判らなかったほど」(『庭園』昭和十三年六月号)であったとのことである。

 

 

 

昭和十三年(1938)に至り それまで一般市民には公開されなかった六義園は 当主・岩崎久弥氏の手により東京市に寄付されることとなる

 

久弥氏は 清澄庭園を大正十三年(1924)に公共のための公園として東京市に寄贈したが

 

ひきつづき昭和十三年四月二十七日 六義園東京市民のため-日本全国民のために公開すべく

 

東京市に寄付

 

六義園が作られてからニ百三十六年目のこと)

 

 

 

清澄庭園六義園が岩崎家から東京市に寄付されるに当っては、当時、東京市公開課長であった井下清氏を忘れることはできない。井下氏は、当時、今ほど「都市に緑を」などと、さわがれない時代にあって、都市の緑の重要性を説き、広く市当局にも働きかけて公園建設行政を推進する一方、清澄庭園六義園浜離宮庭園小石川後楽園向島百花園等々、東京にある庭園、特に歴史的価値のある庭園については、その永久保存を強く要請され、なかでも、岩崎家所有の庭園については、その意を強く表明した。その結果、幸いにして久弥氏の理解するところとなり、清澄庭園ともども六義園東京市に寄付されたのである。

 

 

 

井下氏による

六義園寄付に際しての久弥氏についての記述…

 

六義園の寄附の場合には、翁(久弥氏)自ら市の係に電話をかけ、六義園を寄附したいが保存資金は何程考へたらよいか、とのことであった。係は庭だけで結構です、金などの御配慮は無用でありますと答えた。この間岩崎家の事務所では、この様な交渉は一切知らず、主人と市が直接この様な重大な取決めをされては困ると苦情が出たのであるが、これは、かつて清澄庭園寄附の際、三菱会社(庭園の管理をしていた)と市の間に煩雑な交渉があったので、翁は再びそのような事があっては申訳がないと独断で措置されたのである。

 

 

 

久弥氏より東京市に提出された「寄附目録」は以下のとおりであった。

 

東京市本郷区駒込上富士前町七一番地ノ一

 一 宅地 三万一五三坪一合六勺(約九万九五〇〇平方メートル)

 

同所所在

 一 建物 木造平家八棟(延坪七六坪五合六勺九才)(約ニ五ニ・六平方メートル)

 

駒込上富士前町七一番地ノ二

 一 宅地 九六坪(約三一七平方メートル)

 

駒込上富士前町七二番地

 一 宅地 一〇六〇坪(約三五〇〇平方メートル)

 

他に、玉川上水千川上水)水利権調書 水路費負担割 計一〇六寸坪五七

 

 

・・・…貸地図関係調書…・・・

(・地名 ・坪数 ・借主 ・摘要 の順)

 

本郷区駒込上富士前町七一ノ一ノ内

一一坪・四四 警視庁 巡査派出所敷 無料

 

九・九三 社団法人大和郷会 撒水車及夜警所敷 無料

 

… (摘要)東京市電気局 変圧所敷 無料

 

同 七二番地

一〇六〇・〇〇 東山農事株式会社 無料

 

・・・………………………・・・

 

-『造園雑誌』(昭和三十一年)

 

 

 

 

当時の新聞記事

 

 

“柳沢の栄華を偲ぶ六義園、市民に公開 岩崎久弥男、市へ寄贈”

 

江戸時代から残る帝都有数の名園本郷区駒込上富士前町の六義園が市の公園として公開されることになった。これは名園として名高い深川の清澄庭園を市に寄贈した岩崎久弥男の所有にかゝるもので今回男の好意により市に寄贈することになったもので総面積三万坪(七百万円)、五代将軍綱吉の時、権勢並ぶものなき老中柳沢吉保下屋敷として元禄年間築造されたもので全国の名木珍石多く園内の十二境八景はそっくりそのまゝ保存されている。井下公園課長は十五日園内を岩崎男と共に一巡したが市ではこの純日本式庭園に隣ってスポーツ施設も行い遅くも九月初旬には公開の予定で開園の暁には清澄庭園、後楽園と共に帝都の三名園が市民の行楽を待つことになるだろう。

-中外新聞 昭和十三年四月十六日付

 

 

(同日付)

“天下の「六義園」を岩崎男が寄附 市で体位向上に開放”

 

帝都第一の名園として海外に喧伝されている清澄庭園一万五千坪を先に東京市に寄附した岩崎久弥男が今度は国民の体位向上に利用して貰い田たいと十五日、本郷駒込別邸三万坪(時価七万円)を東京市に寄附申出を行った。

 

東京市では市長代理として井下公園課長が岩崎邸を訪問して寄附を受領し、近代的スポーツ公園としての施設を行い六百万市民に開放することとなった。

 

この別邸は徳川五代将軍綱吉の頃飛ぶ鳥も落とす権勢を誇った老中柳沢出羽守吉保の下屋敷とし築造したもので諸侯は先を争って諸国の名木名石を持寄ったので工事は驚くべき単日月で完成し詩歌に所謂六体六義の語に因んで六義園と名付け園内の十二境八景は、その美麗な風致を天下に誇ったものである。

 

東京市ではさきに開放した清澄庭園、後楽園と並んでこのスポーツ公園の新登場によって市民公園の充実を喜んでいる。

-東京朝日新聞 昭和十三年四月十六日付

 

 

 

この記事は昭和十二年七月七日に始まった中国との戦争(支那事変)を思い計ってか、六義園南西部の運動場(児童園と野球場)を重点にしており、世相が反映していて面白い。

 

 

 

六月七日付「東京日日新聞」では

 

六義園東京市へ寄付されたが、これがまた心なきお役所技師によって、コンクリートとペンキとブリキの犠牲になって寄付者の好意を了らしめらないように祈るものである。

 

公園に「静的」と「動的」とあり、日本の名園は概ね前者に属する。例へば井之頭はいはゞ詩園であり、瞑想の池であり、さすらいの林道であり、年長者の庭であるべきであった。市に賜ってから、その寂びた池は、調子外れのペンキ塗りボートが徒らに水鳥を騒がせ、安っぽい路燈や標注や俗っぽい禽獣の檻は似面非なる「場末日比谷」を造った。ついには児童の健康にもよくないあの冷水プールを設備した。日本の風景美、建築美を毒するものは、生のまゝのペンキとセメントである。しかも便利と経済とは、これらを必需品とする。こゝにそれらの「考慮されたる適用法」と「真の意味の擬装」が要求されるのではないか。

 

オリンピックもすでに迫り、俗悪不体裁な看板、電柱、沿線広告と共に、その建築と造園と舗道と一切が日本的に設備され調和さるべく、その筋のブレインスタッフの協力再検討を要することと思う。

 

 

六義園の寄付と同時に 戦前の東京オリンピック(戦争で中止)に涌く東京市内の景観を非難している

 

 

 

かくして昭和十三年四月二十七日に寄附受領をした東京市は、園路整備(豆砂利敷)と人止柵設置、および松の手入れを行い、昭和十三年十月六日開園したのである。

 

 

 

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15日 園内で短いやりとりを交わした方の姓-漢字は不明

 

16日のシーンの

はじまりの時刻の数字と 名字の発音が同じ…

 

そちらの何か …かもしれない 方面

という 面

 

 

   *

 

 

(『六義園』1981 森守 著 序盤より)

 

《将軍綱吉と柳沢吉保

〈御側用人柳沢吉保〉のあたり

 

「柳沢出羽守保明」(すなわち柳沢吉保-六義園作庭)

 

 

「武田家にとって徳川家は対敵」

 

徳川の祖家康は、織田信長と連合して、天正三年(1575)長篠の戦で武田勢をやぶり、ついには、武田勝頼を天目山に追い込んで、天正十年(1582)3月11日、甲斐国田野(現、山梨県東山梨郡大和村田野)において自害せしめている。……ここに新羅三郎義光以来28代、495年の武田家の歴史はとだえる。戦国の世とはいうものの、武田の血をくむ柳沢吉保が、後世、武田の対敵であった徳川家に仕えることになるとは何という歴史のいたずらであろうか。

 

 

安忠-吉保の父は

月桂寺…新宿区河田町(武州豊嶋郡一谷ノ庄 平安山月桂院)に葬られた

 

月桂寺は(安忠の墓所をはじめ)柳沢一族の墓所があるが

 

吉保夫妻の名は見当たらない

 

 

柳沢吉保と女性たち》-〈桂昌院〉 のあたりから

 

吉保の正室・定子

その史実は 一般に多くは知られていない

 

 

「葬於甲府竜華山永慶禅寺」

 

真光院殿-定子は「姓は源」

 

曾雌(そし)氏の娘であり、万治三年(1660)六月二十四日生れ、延宝四年(1676)十六歳にて、甲斐国主少将、すなわち、甲府藩主柳沢吉保に嫁ぎ、正徳三年(1713)九月五日夜十時、駒込六義園において死す。生五十四歳、甲府竜華山永慶禅寺に埋葬された。

 

定子は「権門第一」の正室でありながら

生活はきわめて質素であり

 

その詠歌の草稿等も

一度用いた紙の裏を利用するなどしていたという

 

 

(現在 永慶寺はなく 定子の墓所山梨県塩山市恵林寺に移っている)

 

 

「信玄霊域隣接地」

武田家ゆかりの寺域に静かな眠りについた

 

永慶寺自体は「龍華山永慶寺」として新たに建立され存続

 

寺堂内には吉保夫妻の木造が安置されている

 

 

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一年間だけお世話になった高等学校

-1979(昭和54)年3月卒業

 

遠足か何かだったのだろうか

 

恵林寺前で撮影した集合写真を

数年前に確認したような記憶があるのだが…

 

 

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画像:「児童園」にて-15

(隣の運動場「野球場」では子供たちの声が響いていた…平日に?などとも浮かんだ…)

 

 

 

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(2024年10月15日に)