…ミステリ…
クロムウェルズ・ブリッジのすぐ近くで
中心街から歩いて数分のところにある
シュルベリーズという名で知られる新石器時代の
ストーンサークル
静寂に包まれた場所で わたしたちまで沈黙を守り 131
「もしかしてわたしたちは、合衆国とのつながりをなんとかして断ち切ろうとしていたのかもしれない」
forgeという言葉に、いったい何が起こったのか。いつの間にこんなひどい意味がくっついたのだろう。つい思索が脱線する。ゆっくりだが着実に進歩してゆくことを指す言葉だったはずだ。 132
利益と偽り、それに秘密とで、がんじがらめになったまま、起きるべくして起きる破滅に突き進んでゆくのだ。 134
罪という名の酸いの味
不意に襲いくる恐怖…内蔵を掴まれ
両手が氷のごとくに冷たくなる 138
The Forgers/Bradford Morrow
The Forgers
(動機もなければ術 すべ もないことがわかって開放された)
すると警察はもう、手もとに残ったわずかな手がかりをしらみつぶしに当たってゆくしかなくなった。 21
筆跡のコツを掴んでは 贋作にいそしむ
仕事を心から愛していた…大げさに言うわけではない
スリルが全身を走るほかの何ものにもかえがたい
最高にうっとりできる
この上なくきらびやかな瞬間
他では絶対に味わえない 達成感 25
理屈抜き 筆舌を尽くしがたい喜び
技そのものの綱渡り的な性格 一発勝負
失敗すれば即紙屑
「ああまた世の中を欺いてしまったなという自覚」 26
……それははじめのうちこそ正しく、のちに勘違いにつながるのだが……
完璧なまでに本物そっくりで非の打ちどころがないうえに、書かれた趣旨や目的などすべてリアルとなれば、ケチがつくはずもない。そこまで精密にねつ造しつくすことこそが、わたしの技の肝なのだった。
(わたしにはインクと初版本がすべてだった)
昔の手紙や直筆の手書き原稿を作るための、値打ちものの古紙。凝った献辞を書くのに欠かせないのが、人の手で調合したインク。献辞は手紙ほど言葉を多く使わないだけに、言葉同士のつなぎ目や順番が、わたしには極めて大事だった。特に、はじめのうちというか、まだひょっこの頃には絶対に。それぞれの手紙には、それぞれしかるべき佇まいと筆圧が必要なのだ。程よい重さのインクで、古めかしいセピア色と褪せた黒色で、自分だけの小さなキャンヴァスを埋めてゆくのだ。上に突き出るところ、下にぶら下がるところ、躍るような字の形、コンマに込める思い。徹夜続きも厭わず、ピリオドを正確に。一重引用符は、羊皮紙の空に浮かぶ黒い三日月のように。
のちに わたしは逮捕された
小石が転がり池に落ちれば たちまち高波が押し寄せてくる…
27
極細の針に糸を通すほどに難しく、慎重に言葉を紡いでゆかねばならなかった。(暮らしの周辺を 捜査中の警察当局が アレルギー誘発物質よろしくそこらじゅうにうようよしていた) 293
手のひらの先は半分…不眠症に首根っこを掴まえられ…物思いに取りこまれ 297
「どうにかこうにか わたし自身の最良の贋作になれた」 159
「報われない努力を積み重ねることで このまま眠らせておくに限る野獣が 目ざめてしまうかもしれない」 160
『古書贋作師』2016 ブラッドフォード・モロー / 谷泰子 訳
リアルすぎて不安に駈られ
想像力を掻きたてられてとてもじっとしていられない
「満ち足りた気分でいられるかどうか」「平穏に暮らせるかどうか」そのことと絡みあっている 178
自らの行い…それなりの理由があって の 「偏執性妄想」
その舞台の下にあるもの…罪の負わせ方
「人生」自体が 緒「冤罪」の創造の上に成り立つ「贋作」
綺麗な台詞に包まれて 正当化され尽くす (排他) 殺人行為
蓋をして ぬくぬくと暮らす 贋作 劇
延延「眠らせ」続けてきた その場しのぎ
乖離してゆく足場
効果的だった 内部の毒(成分 比率 設定)
筋書き(都合で置かれるエンディング)の 先 ・・その先先
「のらりくらり」(十人十色) も 変容 とか あれ とか
*
手指が あれ あちらがあれで そちらはそれ
その存続の仕方は あれの顕現のひとつでは
などなど 思わない人間がいるだろうか
ある状態に保つために「引き起こされる」「プログラムされた」
それを起こさせる「 伝達経路」を構成する 一群の「 」
「 分解酵素」
1996年に命名法を決定
「 転換酵素」
「 遺伝子」に似ているのに ICEの主機能は あれでなく
それの誘導とされている
*
4 海苔をもとめに スガモに
その店員は 私を誰かと 疑いもなしに? 間違えたようにも見えた
「今日は遅番? ○△◇…」(話し続け)
聞き取れないため アンテナを合わせるかのように‥してみたが
?‥‥ 軽く「どうも~」と言って店外に
何といえば‥ ヤラセとも いえないような 何かの接続(ポイント)が違うような‥
違う場所のことについて 同じ場であるかのように 延々と話せる‥
どちらかといえば そちらっぽい感覚?
すぐ後 (帰路)何となく水場をもとめて寄った その近くの図書館で手にした小説
まさか手指のアレ系絡みとは 思わなんだ
…………… * * *……………
(こちらは 9.28~手もとに)
軍国主義が深まりゆくなか(「満州事変」)
1931(昭和6)年4月18日
「前夜までの強い風もやみ おだやかな日より」
明石市大蔵谷にあるわが家を出て、林崎村を通って、明石の浜に出て西へゆっくりと歩き出した。そこから西方へ約12キロ、二見に至るまでの海岸は、屏風を立てひろげたような崖がつづいている。『万葉集』に印南野(いなみの)と詠まれている台地の断面であるが、その崖の地層を丹念に観察してまわるのが、そのころの私の日課であった。 3
宇治川電鉄(現在の山陽電鉄)中八木駅の西およそ600メートルの近くに鎮座する住吉神社の少し西に、北に切れ込んだ深い侵蝕谷がある。そこから西へ半キロほどつづく西八木海岸は、それまでの経験では、もっとも収穫が多い地点であった。 4
*
「原人」と名のつく「古人類の化石骨」
雲はすでにうっすらと暮色をただよわせていた。私は、神経を崖と海浜の観察に集中させながら、谷を過ぎてから約20メートル、小字名で馬田と呼んでいたところの少し手前で、私は、崩壊した土塊が山をなしているところにぶつかった。前夜の嵐がつくった新鮮なすばらしい崩壊土であった。
ふと、崩れ落ちたその土塊の中から、動物の骨化石らしいものがわずかに形を見せているのに、眼が吸い寄せられた。急いで、それをハンドスコップで掘り起こした。
「まさか!」……私は、土だらけの手で目をこすった。人間の腰の骨であった。幻覚ではない、まさに人間の骨であった。 5
(私は見つけ 手にし)
震えが、私のからだ全体に走った。私は長い間念願としていたものを、ついにさがしあてたのだ。
*
(「洪積世人類の骨」)
手足の震えがようやく鎮まると、私はすぐに、その人骨が包含されていた地層を調べはじめた。あたりは暮れなずんでいたが、調査ができないほどの暗さではなかった。潮鳴りが今しがたのように聞こえてきた。私はそこにたちはだかる崖の真新しい肌をにらみつけた。
・干潮時には海面から15メートルほどの高さになるその崖
・最下部に青粘土層が1メートルほどの厚さで堆積
・現れているのがその厚さであり 海中深く青粘土層が続く
崖の基盤をつくっているその堅い粘土質の地層は 嵐で崩されなかった
崩壊土は、青粘土層の上に不整合にのっかっているネズミ色の砂質粘土層の崩れたものだった。この砂質粘土は河の流れによって堆積した地層であったから、ここには礫や小砂の含有が見られた。人間の腰骨は、その砂質粘土層の崩壊土の中に、八分がた埋もれていたのである。崩壊土には他の土がまったくまじっていなかった。これで人骨を包含していた地層がはっきりした。
私は骨をそっと頬にあてた。暗茶褐色のその骨は、化石化して骨面全体がすべすべした感触だったが、ある種のぬくもりを感じさせた。砂質粘土層に含まれていたものならば、その腰骨片が現世人類のものでないことが、いっそう疑いのない事実となる。この人骨発見後まもなく、酷評されたように、それが海岸にうちあげられた投身者の遺骸の骨片でないこと、まして自然のいたずらでどこかの墓場から骨をここまで運んできたのではないこと、そういうことをこの地層が私に語ってくれたのである。
「人骨はあくまでも ネズミ色の砂質粘土層に包含されていたもの」だから「時代はもっとくだらなければならない」
その地層から発見されたパレオロックソドン(ナウマン象)の臼歯は 同じ中部洪積世でも 初期のそれより進化性が認められ それまでの標品や調査結果により そのように推定した 7
数十万年前の化石人骨を含んでいた地層を確かめると、私はまたしても、気の遠くなるような、心酔わしめる感じを味わった。ただ、このとき、私は大きなあやまちを犯していた。人骨を手にすると同時に、それに付着した土を海水でごしごしと洗い落としてしまったのである。これは骨がどの地層から出たかという証拠を捨て去ったことになるからだ。だが、そのときの私は、土の落ちた腰骨が、掌の上で夕陽に赤々とそめられるのを美しく思った。
骨を小脇にかかえて、やがて酔いどれのようなあぶなっかしい足どりで、私は暮れはてた砂浜を引きあげていった。 8
(半月ほど後)
明石市に数年前から病気療養中の旧石器時代研究家として知られる直良信夫学士によって、約3、40万年前の人体の立派な化石(成人男子の左骨盤)一個が兵庫県明石郡大久保村中八木海岸の断崖から発見された。
これは我国内では始めて発見された、洪積層時代の人体の化石で、学界に異常のセンセイションを起こしている。明治12年、東大の教授であったモース氏が、大森の貝塚から新石器時代の遺物がある、ない、で大論戦が起こったことがあるが、直良学士の今度の発見が、同じ状態で、注目されている。
発見された骨盤は長さ15センチ、幅10センチ位の大きさで現在の人間にすれば13、4歳位のものとほぼ同じ大きさで直腸を支えて直立歩行の出来る人類、もしくは高等猿類或は人猿の類の成人の骨盤と鑑定されている。
『大阪朝日新聞』昭和6年5月3日付
人骨は 記事が新聞に掲載される3、4日前に 破損せぬよう厳重に梱包し 東京帝国大学 松村瞭(あきら)博士(当時 人類学教室主任教授)のもとに発送していた 9
『学問への情熱』明石原人発見者の歩んだ道
1995(1981)直良信夫