とある「それぞれ」のこと

 

 

 

今朝 要素をずらっと並べていたのですが   ・・・・・・・・

下書きのまま ではあれですので 置きましょう 

 

 

2本のものを1本にする・・ その間にあるそれらに必要なのは 覆いなのですかね

 

区画分け・・ たとえば 壁   タンスの角度を変えただけで 落ち着く面もあり 

 

 

一度どのようにかなった源泉が どうにかなるとも あれで ポイントをずらして出てきてほしい

 

激変し続ける街を見ることは ものすごく苦痛で

 ついてくる激痛や酷い体調のこと・・もう 我慢したくない  我慢することは できない    

 

(一番)大事なのは まあまあ体調が良くなったこと  これは維持したいのですが

 

 

拡大する要素などは(巻き取りとか圧縮とか願ってしまう) スカスカならば

ある程度吟味 絞ることは できるケースもあるかもしれないですが

 

思っていることさえ すんなり記入できなくなってきている・・ 面も

 

そのような気持ちを ねかせてみるくらいしか  29 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

記事を 下部に保管します

 

…東西それぞれ、絡み合う複雑な歴史… 

 

 

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

はて‥‥‥‥

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細かく記入したらしたで あれなのかな と考え

目線や視点に集中したり はしょったりしました シーン

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それでいいかな と思ったわけですが

.

今日は 軽く 振り返ってみたい‥ような 気に

.

.

(知っているはずの地も)ほとんど見知らぬ地(旅行)でも 味わってきた物事が思い出されて

キョウフ ということもあるかと思いますが それよりも

 

たとえば   焼津は・・ どこでしたか? 地図をみると見慣れた名称

(はじめての場所で動けなくなると・・・・ 琵琶湖・・瀬田アーバンとか 大津側とか) 

持てなくなった荷物・・宅配出しをするためのあれこれも 吐きそうになりながら 這うようにして (マイステイズ名古屋栄)(エレベーター内でボタンを押すなといわれたのは別の宿泊所)

・・とか そういった事務的なことさえ うまくゆかず 途方にくれても 説明もできず 

 

(住んでいるところでも)会話ができたとしても「そういうことあるよね」で 終わり とか

 

 

その「国」 「生別」「年齢」など どれをとっても うごきようもないような

外に出て土台つくり  というのも なかなか・・ ですが 隙間ですか みつけて と

(・・思考が なにかをみて かたまりかけたようなときに あれで・・即ほころび)

 

このたび

かねてより 動かないなあ と 思っていた物事が 急に なんだろう? ということで

個人的には 虎馬的な感覚がおしよせてまいりまして

 

うわあ と

ひたすら 回避 という・・   まあ    でも どこに? ということで 

 

一昨日の午後から夜にかけて 私の所有物を居住スペースの中程から 際に移しました

部屋の交換とか そのような大きなスペースについてのことではないです

箪笥をずらしまして 角度も変えて そこのあたりが線といえば線 壁でもいいですし  

.

窓の開閉 エアコンの調節などといった けっこう寝ていてしんどいとか

そういったことは よくあることかもしれませんが

 

そこでは (呼吸などが)実際に くるしかった というだけではなく  

.

それぞれの動線(・・)や 暮らしかたの特徴 生活時間帯 ですとか

さまざまな意味において ぶつからないような位置の模索 といったさまざまな要素を おりこんでのことで

.

一気に行うことは それぞれの負担になるし‥ などの会話もありつつも

.

(再)規模は小さくても どこかでは やや はりきって動かさなければ進まない(暮らせない)タイミング というものがございます

そのようなときに ふだんの行い 習慣 思考などは隠すことはできず

また しわ寄せが起き それを告げたときの反応ですとか諸行も それなりに ということでしょう

.

.

その26夜に 翌日の(無邪気か邪気か何か)「仕込み」が なされていたようで

.

(寝具など 身の回りの物質の確保 メンテナンス 使い方 処理‥あれこれなどについては 横に置きます)

.

それら(冬物)を処分してしまおうと 思われたようで 置き場にざっくりと置いたのでしょう

.

翌27 昼過ぎ 建物に入ろうとしたときに 管理人による貼り紙つきのそれらが目の前に

.

お馴染みの文言+見たことの無い強い口調「テープ公開」まで記されていて

青くなり 即 かかえて‥‥‥‥

これはどうしようかとは思いましたが(面がわれているのだから 通り過ぎれば同罪?とか)

.

管理人と会話  共感

かかえていた物だけでなく  穏やかに気持のわけあい

その後すぐ 大きなゴミ袋 物の数分三枚持参で 上って来てくださり

これに きちんと入れて口もふさげば出せるよ 大丈夫だから と 手を差し出され

‥‥という

.

本人のいないところでの 動き 流れが ありまして

それでなくとも バツの悪い展開という中で やらかした感じとなり

何かとおいそがしい ということもあるでしょうけれども どこかに おし寄せる物事が

.

要点を絞る努力はしたつもりですが 伝わったかどうか また それとは別に

‥説明で伝わることかどうか

そこまでです (その件について どのようにされるのかは自由)

.

夜 熱心に荷物の把握 見直しなどをされていた ような‥そういう風にも見えましたが

あまり見ないようにしておりました   なんともいいようのない その日

.

.

そういった一例を 混ぜて の

‥それぞれによる それぞれの行い  というような一行でした

 

「そのあたり」 「しか存在しないかのように錯覚 」していたケースなどで   

枠外が みえはじめたときに その溝 時差などが かけはなれていることもみえ   

「どうにもならない」加減が 加速して 更に「どうにもならない」というときに   

それぞれの それぞれによる 何か(の行いなど)が どのようにか

ですか

 

ここで言及していない「とある」域についてのことは 以前何度も記入済み・・ ふれません

 

          …

 

29 挟みます

 

リフトバレー熱 - Wikipedia

 

 


 

          …

 

 

 以下は 記事の保存です

 

池袋駅最大の謎 「東口が西武で西口が東武」になった歴史をひもとく

6/28(水) 11:20配信

NIKKEI STYLE

 東京屈指のターミナル、池袋駅。東口に西武池袋線西武百貨店、西口に東武東上線東武百貨店があることから、「東が西武で西、東武」と歌われたこともある不思議な駅だ。東と西はなぜ、ねじれたのか。その理由を探っていくと、東西それぞれ、絡み合う複雑な歴史があった。

東上線は「東京と上州を結ぶ」の意味

 池袋駅にはJRのほか、西武鉄道池袋線東武鉄道東上線が走っている。西武と東武はいずれも1日の乗降客数が50万人程度と両社最大のターミナルだ。

 西武池袋線がJR池袋駅の東側に、東武東上線が西側に接続していることがねじれを生んだわけだが、ではなぜ名前とは違う側に駅を設けたのか。

 西武と東武のうち、先に駅を造ったのは東武。正確に言うと東武東上線の前身、東上鉄道で、1914(大正3)年のことだ。「東上」なのになぜ西側?

 実は、東上鉄道の「東」は東京で、「上」は上州=群馬県なのだ。東の上、つまり北東方面に向かうのではなく、群馬のある北西方面に向かうわけで、おのずと駅は西側にできた。

 では西武はなぜ東側に? こちらも東武同様、前身となる会社があった。その名も武蔵野鉄道。東上鉄道に遅れること1年。空いていた東側に駅を設けた。最初は「東は武蔵野」だったのだ。

 話はこれで終わらない。さらに資料を調べていくと、両社とも池袋を起点とは考えていなかったことがわかった。池袋が東京屈指のターミナルになったのは、偶然が重なった結果だった。

 まずは東上鉄道から見ていこう。

 「東武鉄道百年史」によると、1903(明治36)年に逓信大臣に提出した「東上鉄道株式会社」仮免許申請書には、「東京府北豊島郡巣鴨町字氷川」を起点とする、と書いてあった。今はない地名だ。

東上線、新潟延伸構想も

 「氷川」とはどこか。国立公文書館を訪れ、当時の文書を調べてみた。鉄道院の文書を一つ一つ見ていくと、参考資料として付けられた地図の中に「氷川駅」の文字を見つけた。場所は大塚駅巣鴨駅、護国寺に囲まれたあたり。今の文京区千石付近だ。明治時代の地図を見ると、「氷川神社」(現在は「簸川神社」に変更)の記載もあった。駅名の由来はこの神社にありそうだ。

 鉄道省が作成した「東上鉄道線路予測説明書」は、氷川周辺についてこう記す。

 「旅客ノ往来ハ市内ノ繁栄ニ異ナラズシテ、商工ノ旺盛、頻繁ニ至テハ亦贅言ヲ要セザルナリ」(市内に負けず劣らずにぎやかで、商業や工業が盛んなことはいうまでもない)

 ターミナルにと期待された氷川だったが、1911(明治44)年には早くも幻となる。東上鉄道の起点が「東京市小石川区小石川大塚辻町」に変更されたのだ。現在、丸ノ内線新大塚駅があるあたりだ。

 変更の理由は市電。氷川を起点とすると、東京市電の線路を越えなければならない。「人家が密集している場所に堤を設け、電車線路と交差させるのは、技術上からも困難」と「百年史」は指摘する。

 だが起点は再び変更となる。池袋の登場だ。「百年史」はその理由として、この間の池袋の急速な発展を挙げる。立教大学や豊島師範学校(現・東京学芸大学)などが次々と池袋に開校し、住民も増加。西口方面から地域に変貌の兆しが表れた、と指摘する。

 曲折を経て1914年、東上鉄道池袋駅はようやく開業にこぎ着ける。その6年後には東武鉄道と合併し、池袋駅東武東上線の駅となった。

 

NIKKEI STYLE

 ところで通常は起点であることを示すゼロキロポストは、下板橋駅近くの留置線内に設置されている。池袋~下板橋間は軽便鉄道法、下板橋~川越町間は私設鉄道法という異なる法律の下で敷設されたためだ。豊島区内なのに「下板橋」という駅名なのは、北豊島郡板橋町下板橋に隣接していたためといわれている。留置線の施設内には記念碑も建っていた。

 ちなみに東上鉄道は当初、壮大な構想を抱いていた。上州までにとどまらず、新潟までの延伸を考えていたのだ。

 鉄道省の文書にはこんな記述があった(抄訳)。

 「東京と、本邦5港の一つである新潟との距離を短縮し、平時は旅客や貨物の往来を便利にして、戦時は陸軍動員の輸送を自由にする」

 だが、この構想は実現しなかった。それどころか、最初に目指した群馬までの延伸も幻に終わった。同じころ、八王子と高崎を結ぶ八高線の計画が持ち上がり、東上線とルートが重複したからだ。東上線は結局、埼玉県の寄居までにとどまった。

武蔵野鉄道も池袋に起点を変更

 西武鉄道の前身、武蔵野鉄道も当初は池袋起点ではなかった。

 1911(明治44)年、武蔵野軽便鉄道(後の武蔵野鉄道)は巣鴨から飯能までの鉄道免許を申請する。このときは山手線と接続する巣鴨駅がターミナルになる予定だった。

 なぜ巣鴨なのか。西武鉄道によると「中山道門前町で、江戸時代から続く東京北郊随一の繁華街だった」ことが理由という。

 だが、計画はすんなりとは進まなかった。翌年には池袋への起点変更を申請する。変えた理由は、はっきりとは分からなかったが、東京府が変更を求めたともいわれている。池袋で山手線、東上鉄道、武蔵野鉄道を接続させる意図があったのか。

 ところで、西武鉄道には「東」がつく駅名が多い。東長崎、東久留米、東飯能東伏見、東村山、東大和市……。東京西部を走る路線なのになぜなのか。

 それぞれの駅で事情が異なるが、多くは別の駅と混同しないため、という理由だ。代表格が東長崎や東久留米。それぞれ長崎村、久留米川という地元の名前からきているが、九州にも同名の駅があるため、「東」を付けて区別したという。

 東上鉄道が西側に駅を設置したのも、武蔵野鉄道が東に接続したのも、当初からの予定ではなく、偶然が重なった結果だった。実は、池袋にはさらにもう一つの「偶然」があった。池袋発展のきっかけとなった、山手線の駅設置だ。

 

NIKKEI STYLE

■山手線も池袋を通らない予定だった

 前回の記事、「まーるい緑の山手線 内回りが女性で、外回りが男性?」でも触れたが、池袋にはそもそも、駅はできない予定だった。

 「東京鉄道遺産」などの著書があり、鉄道の歴史に詳しい鉄道総合技術研究所の小野田滋さんによると、山手線の前身、日本鉄道品川線が品川―赤羽間で開業した1885年当時、池袋に駅は設置されなかった。その後、品川線を分岐させた豊島線が田端に向けて敷設されることで現在の山手線が形作られていくわけだが、当初は池袋より南側にある目白駅から分岐する計画だったという。

 地図を見るとよく分かる。目白から東へ分かれた方が自然なカーブを描いて巣鴨方面に合流する。池袋駅の位置はやや不自然だ。なぜか。小野田さんによると、目白から分岐した場合、ルート上に巣鴨監獄があることが問題視された。ここを避けるため、わざわざ池袋に駅を造ったのだという。

 巣鴨監獄は後に東京拘置所と改称され、戦後は巣鴨プリズンサンフランシスコ講和条約の発効後は巣鴨刑務所と呼ばれた。現在はサンシャインシティとして再開発され、かつての面影はない。跡地のひとつ、東池袋中央公園には慰霊碑が静かに建っていた。

 山手線、東上線、西武(武蔵野)線。それぞれの路線でいくつもの偶然が重なり、今の池袋駅ができあがった。それこそが「不思議な不思議な池袋」といえるのかもしれない。(生活情報部 河尻定)

NIKKEI STYLE

 

 

 

 

27付のものも

 

壮絶な利権争奪戦、被差別部落で生まれた男の一代記

6/27(火) 6:00配信

JBpress

 (文:仲野 徹)

 主人公は上原龍造。昭和24年に大阪南部の路地、一般的な言葉でいうところの被差別部落、に生まれた無名の人だ。子どもの頃から、出身路地である更池の人たちの仕事場であった「とば」で食肉の仕事に携わり、努力と決断力、そして、持ち前の度胸の良さと喧嘩の強さを活かし、同和利権を取り込みながら事業を拡大していった。その一代記が、息子であるノンフィクションライター上原善広によって丹念に綴られていく。

 冒頭からトップスピードだ。まず、とばではいかにして牛を処分するかの説明で始まる。次は、とばで、中学校三年生の龍造が、十八歳の極道見習い武田剛三を牛刀で追い回すシーンだ。周囲の人が止めに入らなかったら、間違いなく斬りかかっていた。

 “殺すつもりでいかな舐められる”

 龍造の育ちと性格を頭に入れながら、優れたバイオレンス映画を見始めたかのごとく、ぐいぐいと引き込まれていく。

 三歳で母に死なれた龍造は祖父母に育てられた。祖母は世知に長けた人で、極道にはなるな、覚醒剤はやるな、入れ墨はするな、と教え、龍造はそれを守った。欠席が多かったとはいうものの、私立中学校を出してもらった龍造ではあったが、子どものころから遊び場のひとつとして親しんだとばでの仕事に就く。

 描かれているそのころの差別は、今の感覚ではまったく信じられないほどひどい。そんな世の中で、牛を屠り、枝肉を担ぎ、捌き続ける龍造。重労働であるだけでなく、かなりの技術を要する仕事であるが、熱心に仕事をこなし、28歳で独立して上原商店を旗揚げする。

■ 机の上に拳銃、利権をめぐる壮絶な話し合い

 役所へ独立資金の融資を頼みに行くと、解放同盟を通してでないと受け付けられないという。しかし、その代表は誰あろう、牛刀を手に追い回した宿敵・武田剛三であった。龍造は、剛三に頭を下げることなどよしとしない。同和利権を手に入れるために、社会党系の解放同盟の独占を快く思わない共産党の活動家、味野と手を組む。

 後に龍造を裏切る味野は、右翼と結託して、輸入牛肉の分け前をもらおうと国に陳情に行ったりする、よくいえば清濁併せのむ、悪く言えば何でもありの活動家だ。金のためにはイデオロギーも何もあったものではない。その紹介で、龍造は、自分と同じように「のし上がったる」という強い意欲を持った一匹狼、新同和会の杉本と共闘することになる。

 「金さえあれば差別なんてされへんのや!」と割り切った考えを持つ龍造とはちがって、杉本は、解放同盟の独占や、解放同盟と結託して荒稼ぎしているカワナンの川田萬を心底憎んでいた。

 解放同盟の独占をなくすには、もちろん公的な活動が必要だ。しかし、大きな利権のからむ話だけに、裏の取引も劣らず重要だった。そのために、大阪のロイヤルホテル(現在のリーガロイヤルホテル、大阪きっての一流ホテル)のレストランの一室でもたれた「話し合い」は息を呑むほど壮絶だ。

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 杉本は、川田との話し合いに、その筋の者3名をつれてきていた。そんな剣呑な状況の下であっても、龍造をそそのかして新同和会に誘い込んたのだろうと、と切り出す川田。、杉本は、バカなことを言うなと啖呵を切る。そして、「工芸品のように磨き抜かれ、黒光りしたスミス&ウェッソン」を机に置いた。

 “川田の顔が憤怒のため、みるみる赤く膨れ上がった。杉本はテーブルに出した拳銃を握りしめたまま、川田を睨み続けた。
しばらく沈黙が続いた。先に声を発したのは川田だった。
「わかった、口は出さん」
「ホンマやの。後で手引いたら戦争になるど」
「わかっとる。ワシも男や、二言はない」”

 ど迫力だ。これを契機に、解放同盟の独占は崩され、代わって新同和会は輸入肉の配当から大きな利益を得るようになる。なんと、組合委員に配った後でも、龍造には月々数百万円がはいったというから、当時の食肉利権の大きさがわかる。このような利権については、他にもいくつもの話が紹介されていて、驚くばかりである。一方の川田は、この「話し合い」を契機に、組員であった実弟を通じて山口組との関係を強化していく。そして、川田に直談判できるような者はいなくなる。

■ 立場は違えど、互いに認め合った男たち

 10歳ほど年上の川田は、若いころから龍造に目をかけていた。解放同盟の独占を巡っては、杉本を介してとはいえ、ふたりは強烈に敵対した。しかし、後になり、龍造が金に困った時には、無利子で金を貸してやったりしている。立場が違えども、お互いに認め合った路地出身の男同士の関係とはこういうものなのだろうか。

 この本『路地の子』が面白いのは、龍造本人のストーリーだけではない。川田、杉下、剛三、味野ら、取り巻く人たちの生き方も凄まじい。そして、もうひとり異彩を放つ脇役が、同じ路地に生まれた、龍造より30歳ほども年上の「人斬りのタケ」こと山口武史である。巨躯であった武史は、復員後、酒に酔った勢いで4人の極道をドスで刺し、網走刑務所に収監される。

 出所した武史は、差別に立ち向かうには教育が必要であると諭されて、酒を止め、解放運動に身を投じる。以後、終生、解放運動を通じて、路地の子どもたちの教育や更正に身を捧げた。こういう地道な活動をする人がいたのかと頭が下がる。差別を何とかしたいという気持ちは同じだが、差別されないためには金だと割り切って金儲けに走った龍造とは対照的だ。

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 武史は、一度、龍造のもとへ、どうして解放同盟を通してお金を借りないのか、と話をしにきたことがある。龍造は「剛三に頭下げるのだけは、我慢ならんのです」と話す。

 “かまへん、かまへん。あんたはあんたの道いったらええねん。解放同盟も商売も大事やけど、人間、スジを通すいうのが人生でいちばん大事なことや。お互い、自分の道をいけばええねん。”

 それ以降は付き合いのなかった両者だが、武史が亡くなったと聞いた龍造は、30万円の香典をつつんで遺族を訪れる。状況は違うが、川田と龍造の関係に通じるところがないだろうか。

■ あとがきから読んではいけない

 「何人かの女と、自由になる金がいくらかあればそれでいい」龍造である。愛人を囲う、妻や子どもは殴る蹴る、間男にいたっては殺しかけたことさえある。外では気配りの利く男という評判であったが、家庭人としては、むちゃくちゃだ。

 本を読みながら、ずっと不思議に思い続けていた。どうして上原善広が父・龍造のことを書こうと思ったのだろうか、と。その疑問は、魂を揺さぶられるような、長い「あとがき」を読んで氷解した。龍造の人生は、あとがきのための長いプロローグに過ぎないのかもしれない。

 あとがきまで読み終えた時、タイトルである『路地の子』の持つ本当の意味がようやくわかる。そして、カバー写真を見直して、あらためて深い感慨にひたることになるだろう。この本、間違えても、あとがきから読んではならない。

 食肉の帝王 (講談社+α文庫)
作者:溝口 敦
出版社:講談社
発売日:2004-11-19

 食肉についての本といえば、なんと言っても講談社ノンフィクション賞を獲ったこの一冊。

 日本の路地を旅する (文春文庫)
作者:上原 善広
出版社:文藝春秋
発売日:2012-06-08

 日本中の『路地』を巡る、上原善広大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。

 発掘狂騒史: 「岩宿」から「神の手」まで (新潮文庫
作者:上原 善広
出版社:新潮社
発売日:2017-01-28

 上原善広といえば、旧石器捏造事件を追ったこの一冊もオススメです。『石の虚塔 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』からの改題。

 仲野 徹
1957年、「主婦の店ダイエー」と同じ年に同じ町(大阪市旭区千林)に生まれる。大阪大学医学部卒業後、内科医から研究の道へ。京都大学医学部講師など を経て、大阪大学大学院・生命機能研究科および医学系研究科教授。専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。 http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/nakano/ ノンフィクション、とりわけ伝記が好き。それが昂じて専門誌に「なかのとおる生命科学者の伝記を読む」を連載。単行本(学研メディカル秀潤社)として上 梓したところ、成毛代表の目にとまりHONZに参加。書籍購入費の抑制、および、仕事と飲酒と読書のバランスとれた鼎立、が永遠の課題。

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