い ちよ *μ (?)


北海道における17世紀以降の火山噴火とその人文環境-の影響

お茶の水地理第30号1989年/徳井由美

VolcanicEruptionsandtheirEffectson
HumanActivity,inHokkaido,Japan
YumiTOKUI

 

 

…大学のキャンパス内も、お茶の水女子大学のシンボルであるイチョウ並木など日本の四季を感じさせる自然… 

 

 

 

「…の   は …の … わたは の人」で「石川千代」

というのが 先だって   せんだって のほうですが   それはそれとして も   さきだって も かもしれず

 

 

 

1868 元年 6月 薬園が幕府から朝廷に移管される というときに

「園内の樹木は期限内に伐採すると関係者に譲渡されるということ」で

多くは 切り倒された と

「ところが」「 幸いなことにあまりに幹が太過ぎ」て

「期限内に切ることができず難を逃れた」という

 

関係者の間では「鋸歯のイチョウ」と「呼ばれていた時代」もあるのですかね

「現在はその痕跡もすっかり消えさって」  とのこと

「斧で切り口が入り」「鋸で引かれ」たそうですが

「傷跡」は「戦前までは見られ」たのかどうかは 存じませんけれど    ?

 

イチョウの木は「雌株」

「相方の雄株はいったいどこのものだったのだろうか」

春になると 風にのる 蕊  「特定はきわめてむずかしい」

…同植物園に伝わっている話では、そのイチョウは当地から南西に約4キロの所に位置する、当時お茶の水にあった東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大の前身)の構内のものといわれています。ちょっと出来過ぎた話ですが、当時は周辺にイチョウがなかったことや、イチョウの花粉が数キロ位の距離まで飛んでいる点などから、そういう推定がなされたもののようです。 P22『いまなぜ イチョウ?』1997 

  

イチョウ精子発見100種年記念シンポジウム、9月8日に開催    1996.09.05 

 

画工から助手へ そして…  

『いまなぜ イチョウ?』1997  『平瀬作五郎伝』によれば

平瀬の仕事は教授のために植物図や顕微鏡図を描くことだった

綿密な観察力と詳細な作図技術は定評があったようで

その腕前を見込んだ石川千代松(当時、助教授)と、学部を卒業しこのころキャリア組の一人として助手を勤めていた藤井健次郎が「イチョウの受精期を顕微鏡で確かめる研究をしてみないか」とすすめたのが、平瀬が研究をはじめたそもそものきっかけだったとしるされています。 P43『いまなぜ イチョウ?』1997

 

国際学術シンポジウムが開かれた山上会館は三四郎池のほとり

イチョウ精子発見百周年記念事業実行委員会
小石川植物園後援会の共同企画
開催にあたり (国際花と緑の博覧会記念協会
ドイツ・シュワーベ社からご援助を受けて開催

 

平瀬作五郎は 1856(安政3)年に現在の福井県福井市に生まれた…いわゆる幕末

父親福井藩士 八人兄弟の長男

 

帝国大学理科大学植物学教室の「画工」

平瀬が勤務するようになって暫くして職制改正により「技手」という名称に
1893(明治26)年には「助手」という職名に
その年から「イチョウ受胎期及び胚の発生に関する研究」に取り組むようになった
同期の助手には牧野富太郎 藤井健一郎の名も

 

1872(明治5)年 16歳で母校の「図画術教授助手」を拝命
1873 教師を辞めて上京 「気鋭の洋画家として名声の高かった」山田成章の門下生となり油絵を学ぶ
(山田は当時 帝国大学医科大学で精密な写生図を描いていて定評があった)
東京で1年10か月画家修行をつんだのち 岐阜県中学校(現 岐阜県立岐阜高等学校)の図画教員に
同時に当時市内にあった 師範学校と農学校の教員も兼務 図画だけでなく 博物学(植物学や動物学など)も担当
学歴は中学卒業だけ 正教員になる資格を有していなかったが
助教諭試補」という身分で月給25円 他兼務手当3円 合計28円の給与(同僚の正教員よりかなり高い給金)
その待遇を捨て 1888(明治21)年4月帝国大学理科大学植物学教室に画工として勤務 32歳のとき 給与は22円  37『いまなぜ イチョウ?』1997

 

どんなツテで?   諸説あり

山田成章が推薦したという説
森有礼(当時の文部大臣)推薦説
矢田部良吉(当時の主任教授)の友人で そのころ小石川植物園の書記だった堀誠太郎という人物の推薦説

 

  簡単にその由来をみておくと、まず森説は、森が大臣のときに岐阜中学を視察した際にたまたま目にとめた作五郎の絵を激賞したというエピソードから生まれたもの。次の堀説は、堀が大学の予備門御用掛りを勤めていたころ、岐阜農学校で生徒のストライキ事件が起こり、森の指示でそれをうまくおさめるために大学在職のまま、岐阜農学校三代目校長に迎えられている点に接点が求められています。つまり、平瀬は当時同農学校の図画教員も兼務していましたので、堀校長は平瀬のすぐれた腕前を知る機会があったというわけでしょう。これは単に仮説ではないようで、堀は友人の矢田部良吉がかねてから植物画を描くのが不得手なことを嘆いていたことを知っていたので、平瀬を推薦したのではないかというのが、同説の由来のようです。また、平瀬自身も、矢田部教授から「平瀬君、植物らしい画を描いてくれたまえ」と、よく植物画の依頼を受けたと回想していますから、この説は一番真実度が高いといえるかもしれません。

  ちなみに、堀誠太郎というひとは、長州藩出身者で幕末のころは高杉晋作の部下として奇兵隊分隊長を勤めたという人物で、維新後は森有礼の書生を経て、明治4年に森がアメリカに留学する際には、矢田部とともに同行しており、つまりこの三人はかなり親しい間柄だったことも付記しておきましょう。

38『いまなぜ イチョウ?』1997

 縁 そして 有力者たちの目にとまり 引き立てられた と

 

このあたりの つづきに

その研究者が大木の上に「ふとん」「板」を持ち込んで 何日も徹夜で観察だか何かを

という・・      で        なので        とまっております

 

 

石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日万延元年1月8日) - 1935年昭和10年)1月17日)は、日本動物学者進化論を日本に紹介したことで知られる。

1909年には、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池でコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた。

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