16 適度に休みつつ‥ (17)おでかけ・・解体前記録用 室内清掃 内外ライン出しなど
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きょう 開いたところ(P309)に いきなり「二重◎」
それを手にとったときに となりの一冊が落ちてきて それも連れ帰る
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『法隆寺のものさし』2004/川端俊一郎/あとがき
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平成15年3月21日
「法隆寺より看た古代中日文化交流」と題しての講演
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「中国の歴史地図帳をみると、朝鮮半島にある古代三国の都督府は、みなそれぞれの首都に置かれ、二重◎で示されているのに、倭国にだけはそれが示されていない」
「日本書紀を金科玉条としてきたこれまでの日本史」では「法隆寺を誕生させた日中交流を解き明かすことができないのである」
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その中国講演の日に合わせて 日本経済新聞の文化欄に「法隆寺のモノサシ」が掲載され
また 北海道新聞も写真入りで講演を報道
「しかしその日は悲しいことに米英のイラク爆撃開始の日となった。またまた多くの人命と自然そして文化財が失われることであろう」
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平成15年3月20日 北京清華大学 建築学院「建研歴史与理論縦向班」の「学術活動」
清華大学世界建築雑誌社と共催/午後7時-9時
どのような理由で日本建築学会が掲載を拒否したのか、興味深そうに聞いてくれた。建築史専攻の学生からは、南朝尺は建築には使われなかったと教わったという質問があった。しかし、南朝尺の使用例がないのは中国で南朝の寺院がみな破壊されてしまったからで、日本の法隆寺ではその南朝尺で寸法があっている。するとまた、傳熹年論文を読んだ学生からは、日本の法隆寺では高麗尺が使われており、その〇.七五尺で寸法があうのではないかと質問があった。法隆寺には高麗尺が合うと言い出した関野貞は、小尺の一尺二寸と定められた唐尺のさらに1.2倍も大きい大尺があったものと考えた。しかしこれは実在しない想像上の尺で、しかも金堂初重に合うような高麗尺を想定すると、上重では全く合わなくなることなどを説明した。
「よく勉強している学生たちであった」
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