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器を踏み割る 呪法

彦火火出見尊絵巻』全六巻

古事記日本書紀にみえる兄火闌降命の海幸と弟彦火火出見命の山幸の神話を潤色したもの だそうですが

 

小浜市門前 真言宗御室派明通寺に有る と 「市」は

 

彦火火出見尊(若狭彦神社祭神)と海神の女豊玉姫(若狭姫神社祭神)との婚姻説話

その子鸕鶿草葺不合尊の誕生に至るまでの物語り

『看聞御記』の嘉吉元年(1441)4月16日の条に、この絵巻の原本(2巻本)が若州松永庄新八幡宮に在り、後崇光院が帝に進覧のためにこれを借出したとの記述があり、その中にも古くすぐれた絵とあるから、原本は恐らく平安末期の作と推定されるものである。更に降って寛永17年(1640)には、これが3巻本となり明通寺の什宝となっていたものを、藩主酒井忠勝が将軍家光に献上したため、忠勝は狩野種泰に命じてこれを模写して6巻本となし、詞書は足立勝興に楷書せしめたものが本絵巻であり、その原本は既に現存しない。

 

「県」による 同様の記述

『看聞御記』の嘉吉元年(1441)の記事によると、本絵巻の原本は、若狭国松永庄新八幡宮に『伴大納言絵巻』(国宝・出光美術館蔵)・『吉備大臣入唐絵巻』(ボストン美術館蔵)とともに伝わったことがわかる。これら3本の絵巻は、その後別当寺の明通寺にあったが、藩主酒井忠勝によって徳川家光に献上され、その際、明通寺のために狩野大学種泰によって模本六巻が作られた。狩野種泰は狩野松栄の門人、内匠助種永の子で、将軍家光・家綱の二代にわたって御用絵師を勤め、寛文9年(1669)54歳で没している。本絵巻は、酒井忠勝の若狭転封の寛永11年(1634)からの家光の薨ずる慶安4年(1651)までの間、彼が三十代前後の若い時期に制作されたものであると考えられる。

 

 

すみませんが トリミングさせていただきまして

f:id:kaon-yokegawa:20150822223041j:plain 待女が土器を踏み割る シーン  ・・とのことで

カットした右のほうにある足先は「ウガヤフキアエズを出産しようとしているトヨタマヒメ」のもの

らしいです