ショカン的空間

藤巻一保氏の著書

藤巻氏の流れは 別室/水のよう・・ Fujimaki版 に移りました

 2014年4月22日藤巻一保氏の著書 2 につづきます

 

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「ふさがれた」と とらえられるような状況のときにどうするのか 

というところが 今もなお  

 

 

 

「(秘)口伝」という部分の拡がりがあるのでしょうか

 

 

秘されたものは どんなふうにか変化し 後世に何かがあらわれたとしても はかりようがない という面

 

まして 文献などの資料が少なかったとしたら

 

言い伝えなどが 真っ直ぐであるかどうかもわからない

 

 

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立川流の勢力圏は 関東に限らず
高野山にも比叡山にも入っていたし、醍醐寺などは当然メッカだ。ほかにも古代からの大寺名刹の中に、立川流に染まった寺はいくつもある。」
(『真言立川流』 藤巻一保 著)

「成立相承した立川邪教の流れが、蒙古襲来の文永ごろ(1264~1275年)には完成していたものだろうと述べている」のは 
守山聖真氏

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この 元の文章

(藤巻氏もストーリー仕立てで話を進められている)

 

「(略)立川流の勢力圏は、もちろん関東にかぎりませんよね」

「かぎるものか。高野山にも比叡山にも入っていたし、醍醐寺などは当然メッカだ。ほかにも古代からの大寺名刹の中に、立川流に染まった寺はいくつもある。守山先生は、こうして成立相称した立川邪教の流れが、蒙古襲来の文永ごろ(1264~1275年)には完成していたものだろうと述べている。ここまできたら、後醍醐帝と文観の南北朝は目と鼻の先だ」

「いよいよですね」

「後醍醐帝に立川流が流れ込んだというのは、今わしが話してきたように、吒枳尼天も立川流も稲荷神も弁天も愛染明王も、すべては広義のケと死の女神に包摂されるという意味でなら正しい。というのも、文観は、まさにこの文脈に位置した僧だからな。ただ、当初、水骨さんが言っていたように、例の髑髏本尊との連想で後醍醐を論じるなら、それはとんでもない大タワケというものだ。」

 

 

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「種蒔きは「勝覚」の弟「仁寛」ではないか」(そのつもりはなかったとしても) という見方

 

 

     仁寛は「名家中の名家のボンボン」  (「わずか5か月で自死」) 

 

 

「もう耐えられないと思い詰めた末の投岩自殺だったんだろうと、わしは思うよ」

 

「そんな心理状態で、男女和合の邪教を伝授したというのも、なんだかリアリティのない話のような気がしますね。ちょっと突飛な印象だ」

 

「そのとおり、突飛すぎるんだよなあ。今流の言葉でいえば、このとき仁寛アイデンティティ崩壊の危機に瀕していた。そんなとき、果たして何が彼を支えたかだ。彼には、もう今生での未来はない。現世での道は完全にふさがれている。いまさら護摩を焚き、天部に祈っても詮ないわけだ。となれば、救いは蓮の台(うてな)しかなかったのではないかと、わしは思う。だからこそ仁寛は、蓮を念じると書いて“蓮念”と名を改めたと思うんだよ」

 

「なるほど、そういえば例の立川の陰陽師も、法名は見蓮(兼蓮)で蓮がつきますね」

 

「見蓮だけではない。別の系譜もあるんだ。これは、金沢文庫に残る立川流文書を詳細に調査した櫛田良洪先生が発見したものだが、《仁寛__伊豆浄蓮・遠江八田極楽寺学真房□・武蔵国立川蓮念(見蓮の誤記)》という血脈が現に残っているんだ」

 

「立川の見蓮だけじゃなくて、伊豆の弟子も蓮の字のつく浄蓮なんですか」

 

「学真房某(なにがし)にも蓮の字がついていた可能性がある。その部分が欠け字になって読めないんだ。とすると、仁寛こと蓮念は、蓮に関する何かを教えたと考えても、あながち間違いではなかろう。それなら蓮は何かということだ」

 

 

         ・

 

“蓮”に隠されたもの

 

「これから話すことはわしの独断だということを、あらかじめ断っておくぞ。さて、蓮とは何か__これが問題だ。蓮というと、水骨さんはたぶん浄土宗系の南無阿弥陀仏の蓮のあたりを連想するんじゃないかな」

 

「まず思い浮かぶのはそれですね」

 

「しかし、仁寛はれっきとした密教僧であり、しかも阿闍梨だ。蓮といっても浄土宗の蓮ではなく、密教流の蓮に違いあるまい。しかもそれは、仁寛が付法を得た醍醐流密教の中の蓮であり、さらには、後に立川流の母胎になりえたような内容を含んだものでなくてはいかぬ。仁寛にその気がなくとも、弟子が教えを曲解して、いわゆる淫祠邪教の立川流につくりあげていった可能性があるんだからな」

 

「弟子にしても、仁寛に念仏を習いにきたわけではなく、はっきりと密教を学びにきたわけですからね」

 

仁寛が見蓮らの弟子に伝えたものは、後の立川流文書から推しても、真言の眼目である大日如来との一体による即身成仏以外にはありえない。その即身成仏を成就するためには、元来如意輪観音を本尊とした十八道行法を修し了(お)え、次に金剛界曼荼羅を本尊とした金剛界行法を修し了え、次に胎蔵界行法を修し了えたうえで、護摩行法を満了し阿闍梨から認可を受ける(伝法灌頂)という段取りが要求される。これを《四度加行(しどけぎょう)》というんだが、配流後、わずか五か月で自殺した仁寛が、満了するまでに何年もかかる四度加行を指導できたわけはない」

 

「それはそうでしょうね」

 

「ただし、四度加行が真言即身成仏のエッセンスであることに変わりはないから、そうなると、仁寛は、エッセンスの中のさらにエッセンスだけを抽出して立川の陰陽師に与えたと考えるのが自然だろう。となれば、四度加行の中の金剛界胎蔵界の一体化が大日如来だという考え、および観法しか考えられない」

 

「金胎両部の合一ですね」

 

「さらに、仁寛は勝覚から醍醐流を学んだんだから、醍醐教学の根幹である《本有(ほんう)思想》を説かなかった道理はない。本有思想というのは、簡単にいえば、人間は本来、仏性を宿している、本来成仏した存在なんだという思想だ。この思想が端的に表れているのが、『纂元面受(さんげんめんじゅ)』だ。なぜこの本に注目するかというと、『纂元面受』は、一方では醍醐教学の根本思想を鼓吹した書といわれ、他方では立川流邪教書といわれて、正統と異端の間におかれているからだ」

 

「それで、その『纂元面受』には何が書かれているんですか?」

 

「本有思想が全面的に展開されているんだが、注目したいのは、その際の両部合一の象徴だ。まず、金剛界を大智とし、父とし、“白い舎利”とする。また、胎蔵界を大悲とし、“赤い蓮華”として両者の合一を説くんだが、その合一の説明に、父母が和合相応した境地は不二であって、心は一つであり、だからこそ浄心だといった表現を用いているんだよ」

 

「何だか立川流のにおいがしてきたな・・・・・・」

 

「これはあくまで象徴なんだが、この合一を一つのイメージで表せば、胎蔵界のなかの中台八葉院の大日如来ということになる。つまり、八葉の“蓮”にのった大日如来こそが、行者の求める理想の姿だ。蓮の上で即身成仏するんだよ」

 

立川流にも、男女が中台八葉院で合一した姿の曼荼羅がありますね」

 

「そういうことだな。しかも、こうした赤白・両部の教えは、陰陽師には最も理解しやすい。というのも、彼らの世界理解は陰陽二元からなっており、陰陽二元は一者である太極から発していると考えられていたからだ。陰陽道では、陰は女性原理、陽は男性原理と考える。そこのところを、陰は母で胎蔵界、陽は父で金剛界であり、両者は本来不二と教えれば、陰陽師の頭にはなんの抵抗もなくスラスラと入るわな」

 

「たしかに入ります。でもそれだと、仁寛はやっぱり立川流を説いた開祖だということになりませんか?」

 

「そうはならんだろう。仁寛は、別に女犯(にょぼん)の実践を説いたわけではない。しかも、右に述べてきたような思想のルーツは、仁寛の兄の勝覚にさかのぼるらしいんだ。名著『立川流とその社会的背景の研究』の著者の守山聖真先生が引いている三十七尊配位鈔(さんじゅうしちそんはいいしょう)』 内の 『権僧正(ごんのそうじょう)勝覚の御記(ぎょき)』というものが出てくる。勝覚の書き残した文書の引用だ。その一部に、こんなことが書かれている」 

 

~赤白をもって両部大日如来となし、あるいは日輪(にちりん)・月輪(がちりん)と名づける。・・・・・・いうところの赤色とは、皮膚と肉、また母婬である。すなわち、胎蔵界大日如来である。白色は色骨、また父婬である。すなわち、金剛界大日如来である。~

 

「ほほう、まるっきり立川流だ。これが勝覚の御記にあるというなら、仁寛は別に異端の説を説いたつもりでなくても、自然に立川流の種を蒔いたことになる・・・・・・」

 

密教の常用経典に『理趣経』がある。立川流でも根本三経の一つとして最も重視した経だ。中でも冒頭の《妙滴清浄句(みょうてきしょうじょうく)》の部分が眼目だ」

 

「妙滴清浄句というのは何ですか?」

 

岩本裕(ゆたか)先生の訳はこうだ」

 

~男女の交わりの完全な恍惚境、それは実に菩薩の境地である~

 

「はあ? これもそのまんま立川流じゃないですか」

 

「これは比喩だよ。そのまま受け取るものではない。とはいえ、そのまま受け取りたくなってもおかしくない比喩でもある。漢訳の《妙滴》は“性愛の快楽”の意味で《妙住・妙楽》などとも訳される。梵音は《蘇羅多》。その意味は《那羅那哩娯楽(ならなりごらく)》だ。那羅が男、那哩が女を意味するので、ソラタすなわち那羅那哩娯楽は男女の楽しみ、要するに、岩本訳にあるとおり、男女の交わり、交会の意味なんだ」

 

「で、蓮はどこに?」

 

 

 

 

 

 

 

 

   ・ ・ ・ ・ ・

 

 

k*blanc 2010.6.12分 「帝を導いた光」より

 

後醐醍帝を導いた伏見稲荷の光は 後に吉野金峯山の傍らに祀られた・・・
吉野の導稲荷神社

導稲荷神社の分霊を請けて祀ったのが新宿の花園神社・・


本 『真言立川流藤巻一保氏の著書  (巣鴨図書館)

 
「宗教における神秘主義」   「信長の信仰とその守護神を探る」
藤巻氏のご研究や執筆のテーマは多岐に渡られ


 ご専門の一つが「呪術」なのでしょうか・・ 「呪術の本」にも多く寄稿されていて・・  

ご著書の中の「阿倍晴明」も拝読・・
カバーの折り返しに「真言立川流」も紹介されていて・・
「異端として弾圧された謎の邪教」などと添えてあります


1336年に 後醍醐天皇が幽閉されていた花山院から吉野の吉水院に逃れるときに
突如として現れた霊光が 暗い夜道を明るく照らして後醐醍帝一行を導いた  との逸話がある・・とか

吉野の蔵王堂境内にある導稲荷といわれている・・・そうで


~ 帝は三種神器を新任の勾当の内侍に持たせられ、
子供らが踏み破った土塀の崩れ穴から、女房の姿になって忍び出られた。
・・・・・・しかし、このような姿で白昼に奈良をお通りになっては
人に怪しまれることもあろうと考え、
帝をみすぼらしいこも張りの輿にお移ししてお供の北面の武士どもを輿かきとし、
三種神器は足のついた行器(ほかい)に入れて、
神社参詣の人が弁当などを持たせたように見せかけ、
影繁がみずから人夫となってこれを持った。
・・・・・・その日の暮れ方にようやく内山にまでお着きになった。
しかしここにも、敵が追いかけて来ることもあろうかと安心ができなかったから、
今夜中になんとしても吉野あたりまでお移し申しあげようと、
ここからふたたび帝を馬寮(めりょう)の馬にお乗せした。
八月二十八日の夜のことで道は暗くてとても進めそうにもなかったのだが、
このときにわかに
春日山から金峯山(きんぷせん)の峰まで光るものが飛び渡るように見え、
松明のような光が夜もすがら天地を照らしたので、行く道もはっきりと見えて、
まもなく夜明け方に大和国賀名生(やまとのくにあのう)
というところへたどりつかれた。~     『太平記

 

~その日はとても暗い夜だったので、お供の人々も、
「どうすればよいであろう」 と困惑しているのを帝がお聞きになり、
「ここはどのあたりか」 とお尋ねになられた。
そこで忠房の侍従が 「稲荷神社の前でございます」 と申し上げた。
すると帝は、
「ぬば玉の くらきやみ路にまようなり われにかさなん三つのともし火」
と、御製をお詠みになり、稲荷社を伏し拝まれた。
すると、社の上から非常に明るい光の一むらが立ち現れ、
臨幸の道を照らして帝の一行を送った。
そこで帝は大和の内山にお着きになったが、
そこで光は金の御嶽(金峯山)の上で消えうせた。~     『吉野拾遺』


三つの灯火を貸してくれぬか?と詠まれた理由として 日月星の三天
伏見稲荷の三天峰の上中下のお宮の神の光を望まれた と・・
 
それは 聖天・弁財天・吒枳尼天(太陽・月・北斗でもある)と説明されておられます


吉野落ちの三年前の1333年に隠岐から脱出したときに 
船上山で幕府調伏の祈禱を行った・・ ということについて


~京都における数度の合戦に、官軍側は毎度敗北をきっし、
八幡・山崎の陣もすでに小勢になってしまったと噂が流れたので、
後醍醐帝は天下の安否はこののちどうなろうかとご心痛になり、
船上山の皇居に仏壇を設けられて、
おんみずから金輪の修法を行われた。
その七日目にあたる夜、?日月星の三光天子?が光輝いて壇上に並び現われたので、
これは御願がただちに成就する徴だと、
帝は頼もしく思し召された。~     『太平記』 


太平記のほうは 聖天・弁財天・だ枳尼天の三天ではなく 
日天子・月天子・明星天子のことをいっているのではないか・・
と推測されておられます

 

「帝を導いた伏見稲荷の三光は、後に吉野金峯山の傍らに祀られた。
これが吉野の導稲荷神社だ。
その導稲荷神社の分霊を請けて祀ったのが、新宿の花園神社・・・」  とのこと・・
 


花園神社に だ枳尼天が祀られていたのは確かとしても 
ご本尊については もともとは十一面観音様ではないか と・・
明治の神仏分離・判然令で仏様に出て行ってもらったというようなことだそうで

 

 

それる・・というか  もどって・・ (年代もさかのぼって)


「呪術の本」で 本田不二雄氏が 帝の行った金輪の修法について述べられていて


~ 1324年の第一次倒幕の野望がついえた後醍醐天皇は、
以後、有力寺院に幕府調伏の祈禱を命じ、のみならず
「禁裏(後醍醐)、聖天供とて御自ら御祈禱候」(金沢貞顕の書状)とあるように、
みずからも「聖天供」と呼ばれる修法を行っている。
聖天の法は、行者の所願のまま「どんな悲法悪行といえど成就せしたまう」という、
強烈な呪力を誇る最極秘の法とされている。
いっぽうで『渓嵐拾葉集』には、怨敵治罰の験とともに、
法を修する者を「国王」にするという秘密の効験があることも記されている。
すなわち、第二次倒幕のための準備を進めていたこの時期、
帝は実権をみずからの手に戻すべく呪的包囲網を
着々と固めていたのである。
やがて隠岐に配流されたのちも、帝は隠岐の行在所(あんざいしょ)で夜を徹して
倒幕の密教修法に明け暮れ、
期が熟したと見るや、伯耆国(ほうきのくに)に潜行。
船上山の皇居に仏壇を設け、みずから「金輪の法」を執り行ったといわれる。
金輪とは、古代インドの神話上の世界最高の王とされる
「金輪聖王」(こんりんじょうおう)に由来し、
いったんこの修法を行えば、どんな呪法もその効力が失われるという。
つまり帝は、みずからを神話上の聖王になぞらえ、
秘法中の王法を修することで悲願成就の総仕上げを行ったのである。
やがて新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時ら幕府数百人は自刃に追い込まれる。
こうして、帝のシナリオどおり、
いったんは天皇親政による建武の中興が成就したのである。 ~ 

 


(西新宿にも新宿総鎮守がある)

 

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