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日本の「医療史」 2

『日本医療史』2006 新村拓 編

 

(平安の都人を襲った病)

《祈療と医療に従事する僧》より

 

そもそもわが国における仏教の受容は「蕃神(仏)」が持つ高い治癒能力に期待したものであった(『日本書紀欽明天皇一三年、敏達天皇一四年)

そのことは奈良薬師寺の仏足石歌が端的に…「薬師は常のもあれど、賓客(まらひと)の、今の薬師、貴かりけり、賞だしかりけり」と 示し 世の常の医師と比べ新来の仏(薬師如来)による治病効験のほうが優れていると言うのだ…仏教は専ら祈療に奉仕するものとなっている

善因善果 悪因悪果の速やかなことが具体的で かつ 恐ろしい病を通して訴えることの効果が期待され たとえば『日本霊異記』下巻第二〇は『法華経(ほけきょう)』を写し奉る女の過失を謗った者の口が歪んでしまった話で 末尾に「此の経を受持する者を見て、其の過悪を出さば、若しは実に、若しは不実なるも、此の人は現世に白癩の病を得む」と記された『法華経』の文言が典拠として持ち出され 口の歪んだ理由が明示されている

 

仏法を謗った報いが病となって現れ、仏法僧の三宝に帰依することによって病が治るという筋立ては類型化されている。

 

日本霊異記』と『今昔物語集』(本朝部)にある治病説話の中で病因を明らかにしている話は95
うち72は仏法誹謗の罪 宿業 鬼神・生霊・疫神・物怪・呪詛といったものが病因とされ

 

それへの対応として加持祈祷や経典読誦 陰陽師による祭法のほか 医療も用いられ
残りの23は外傷のほか さまざまな病名が記され

 

往生伝や中世の説話集も含めてそれらの病名を概観してみると 風病・風気・風痺・風疾と呼ばれる病が最も多く

それに続いて悪瘡・二禁「腹解けにけり」(『今昔物語』巻一九)という言い方もされる痢病 瘧病 中風 熱病が多く

胸病 白癩 寸白(すばく) 咳病 脚病などは少ない

癲癇(『沙石集』巻三) 不食の病(『雑談(ぞうたん)集』) 脹満(『撰集抄』巻八)は稀な病となっている

 

それらの病に対して薬療や食療 温石(焼いた石を布で包み身体を温める) 針灸などが用いられている

 

仏教説話から抜け出て の)僧の活動は祈祷の世界にとどまらず 針灸・湯薬を駆使して医療にあたる姿がみられる…平安中末期に始まる僧医たちだ

 

本来僧は基礎教養(五明)として医方明と呼ばれた医学を学んでおり(『性霊集』巻一〇ほか) 比叡山においても医療の修学があった(『渓嵐拾葉集』序)

 

インドのアーユルヴェーダー医学に淵源を持つ仏教医学は中国医学と習合したかたちで日本に入り 中下級僧の生活手段と化し 中世にはたくさんの僧医が生まれている

一般には「くすし僧」「寺門薬師」「医師僧」などと呼ばれ(『山科家礼記』寛正四〈1463〉年六月ほか) 民間医(俗医・里中医)と変わらない診療活動を展開させている
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《疫への対応》より

 

時には大量の死者をもたらす疫癘…畏怖の対象

疫癘は疫病 疫気 時気(ときのけ) 時疫 時行病 悪疫とも記される流行病…「世の中ここち(心地)」「世の中さわがし」とも言われ

医疾令の義解によれば 時行の病は四時不正の気によるもの(平素あるべき季節とは異なる寒暖)であり 老少となく おおむね相似た症状を呈するとし さらに陰陽の不和による場合

 

それはたとえて言えば 人を役(えき)するがごときもの

 

疫癘とは四時不正、陰陽不和という異常気象に原因があると考えていた…中世人も「寒暖の不順、諸人病脳の基」(『十輪院内府記』文明一一〈1479〉年紙背文書)であるとか

「季節相違、貴賤病脳の瑞相」(『経覚私要鈔』康正三〈1457〉年五月)、「天気の不同、諸人発病の基」(『吉田家日次記』応永九〈1402〉年二月)と言われていた…共通した認識

「異土」から訪れる使節 あるいは「異土」からの帰国者である遣唐使らが介在者となって 日本に持ち込まれた「毒気」であるとする見方もあった(『三代実録』貞観一四〈872〉年正月 『栄花物語』巻一六ほか)

 

神格化された疫神・疫鬼の仕業であると捉える見方もあった


神祇令の義解をみると 季春に大和の大神(おおみわ)と狭井(さい)の両神社に対して奉幣する鎮花(はなしずめ)祭について「すなわち、春花が飛散するとき、疫神は分散して癘をなすため、それを鎮めるために祭りを執行するのであると」記し

同様な捉え方は『延喜式』の宮城四隅疫神祭・畿内堺十処疫神祭・道饗祭にもみられ その意図は疫癘をもたらす鬼魅を畿内に通じる道の国堺において饗応し それをもって京に入らせないというもので…季夏と季冬に行われる祭り

 

また大晦日の夜の追儺も疫鬼を饗応した上で それでも隠れて出て行かない疫鬼に対し 戈と楯を持つ方相氏(ほうそうし)をもって追い払わせる儀礼

鬼とは一般に「隠身の死魂神」(『和名抄』)と考えられ その鬼が『融通念仏延起』にみるように 集団化して活動すれば疫癘という現象になるのであろう

 

平安末までに発生した疫癘は166件を数えるが その44%は三月から五月の三ヵ月に集中している

 

その鎮花祭にかぎらず御霊会やそのほかの治病・予防儀礼に多くの者が集い (危機意識をもって)行動したことは集団としての結束を強めるという副次的な効果をもたらすことになった

疫神が引き起こす赤斑瘡(あかもがさ)・裳瘡(もがさ)(麻疹)には「上中下分かず病みののしるに、初めの度、病まぬ人のこの度、病むなりけり」(『栄花物語』巻二五)とあるように

免疫についての認識が示されていて 免疫力を持たない人が社会の中で飽和状態になったとき 爆発的な流行をみるという病の周期性についても知られていた(同 巻三九)

 

疫癘とは 赤斑瘡のほか 痘瘡・疱瘡(天然痘) 三日病 逆病・咳逆・風気(風邪・インフルエンザ) 赤痢 福来病(おたふく風邪 流行性耳下腺炎)など

その来襲はしばしば「死亡者多く路頭に満ち、往復の過客を掩ひて過ぎ、鳥犬食に飽き、骸骨巷を塞ぐ」(『本朝世紀』正暦五〈994〉年四月)と記録されるような惨状をもたらし

政府のとった施策は
・神仏への祈請
改元
・仁政の象徴としての大赦や賑合

改元は「天変・地妖・病患の三事」に際して行われるもの(『迎陽記』応安元〈1368〉年二月)…詔符の文言によれば「天皇は自らの不徳を天に陳謝し、徳化を行うことを誓い、災異の終息を願う」といった趣旨

 

疫神祭・道饗祭は中世になると 陰陽師が執行する四角四堺祭・鬼気祭などに取って代わられている(『園太暦』正安二〈1300〉年六月 『愚管記』延文五〈1360〉年五月ほか)

 

疫癘の原因については
・怨恨を含んで死んだ者の死霊(御霊)の飛来
・蒙古襲来のときの死怨霊(『後法興院記』文明一二〈1480〉年六月)

 

そのようなこととされたり 疱瘡疫神や麻疹疫神のような疫神の分化もみられるようになる(『続史愚抄』文明三年八月 『親長卿記』長享二〈1488〉年七月)

さらに 疫神への対応として吉田神道は疫神除けの札を出し(『兼見卿記』天正一三〈1585〉年正月)


(中世の遺跡からは「蘇民将来」「急急如律令」と書かれた木簡が出土…呪符信仰の広まり)

 

医書によれば 病は「機能の衰弱あるいは亢進した状態 平衡の崩れ」

病の伝染性に関する記述もみられる…伝染する病は注病と呼ばれる

 

『医心方』巻一四には「注とは住」の意…「邪気が人の身内に住するが故」とし「死後また傍人に注易し、滅門に到らせる」とある

 

戸令の義解には、「癩」は「よく傍人に注染」するから人と同床してはいけないとある。注病を代表するものに伝屍病があり、『医談抄』には「鬼ノ住スル病」であるため「霊道」をもって治療するしかないとある。その症状は『医心方』巻一三によれば結核を思わせるものとなっており、「夜臥して盗汗(ねあせ)あり、時に咳」「日午以後に四体微熱」「心胸満悶、四肢無力」とあり、注易するから転注と名付けると論じている。ほかに同様な症状を示すものとして骨蒸病、肺痿があげられている。

結核がどのくらい広まっていたのか分からないが、中世の写本として『伝屍病口伝』『伝屍病灸治』『伝屍病二十五万』などが伝わっている。しかし、公家の日記や説話・物語といった文献には伝屍病の名はみられない。
近世には労咳・労症という呼び名が付けられ蔓延をみた(が 古代中世ではどうだったのか)

 

(なお、近世中期の儒医勝部青魚の随筆『剪燈随筆』巻二には、伝屍病は「人その治しがたきに苦しんで、針級薬の治法は疎略にして呪に走り、又は仏神に祈る。それに乗じて巫祝の徒いろいろの邪説を成し、死に至れば命に帰す。心を用て早々療治すれば治せざる病はあらず。癩のごときとは違ふ也」と述べ、灸と漢方を紹介している)

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