「十字軍」「らい病」関連頁(コピペ)

2016年6月7日 10時56分の記事
 
 

「十字軍」「らい病」・・で 検索し 
そこらへんに向かう途中で 別の 同様か? のところに立ち寄っている 





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ボードゥアン4世(Baudouin IV, 1161年 – 1185年3月16日)は、エルサレム国王(在位:1174年 – 1185年)。エルサレム国王アモーリー1世の息子。


幼少時

ボードゥアンは父に離縁された母アニェスとともに過ごすことなく、父の宮廷で育てられた。9歳から、古典学者・アラビア語学者・歴史家でありティルス司教となるギヨーム・ド・ティールに教育を受ける。ギヨームによるとボードゥアンは非常に才能豊かな、魅力ある美少年で、朗らかで、活発で、運動神経も良く、すでに一人前に馬を乗りこなした。頭の回転も素早く、人並み以上の記憶力を恵まれて、侮辱を忘れないが、受けた恩恵を忘れることはさらになかった。ラテン文学と歴史にはとりわけ熱中した。
ある日のこと、若い王子はエルサレムの諸侯の子どもたちと遊び、夢中になってお互いの手をひっかきあったが、ボードゥアンだけが悲鳴を上げなかった。驚いたギヨームが尋ねると、少年は何も感じないと答えた。そこで初めてボードゥアンが皮膚の病(ハンセン病ともいわれる)に冒されていることがわかり、医者に診せても治療ができないことが明らかになった。


サラディンとの戦い

ボードゥアンは13歳で王位に就いた。彼の最初の摂政はミロン・ド・プランシーで、次がトリポリ伯レーモン3世である。国外ではサラディンスーダンからユーフラテス川にかけて統一する機運であった。1175年レーモン伯はホムス方面に先制攻撃し、サラディンアレッポを手放させた。その間に14歳であったボードゥアン王はダマスから約5キロの地であるダレイヤまで軍を進めた。翌年7月にまたもアレッポを包囲しようとするダマス軍に陽動作戦を加え、アンジャルの付近で破る。

1177年、エルサレム王国の精鋭がシリア北方で戦っている間に、サラディンは守りの薄くなった王国西南部のアスカロン要塞に、エジプトから騎兵で急襲した。王は400名の手勢を率いて「真の十字架」を奉じて立ち向かい、サラディンより先に要塞に着くが2万6千のエジプト兵に包囲される。エルサレムまで攻めこむつもりのサラディン軍を追い、敵の遊撃隊に焼き払われた農地を見ながら、やがて川床へ入る敵軍を見つけると「弱者のうちに力を現す神が、病気持ちの王を鼓舞したもうた。王は馬から降り、大地に跪き、十字架の前にひれ伏して、涙ながらに祈りあげた。そのさまを見て、すべての将兵は感きわまり、この期におよんでは、一歩も引かぬこと、馬首をめぐらすものは、だれでも裏切り者と見なすことを誓った。将兵は馬にまたがり、突撃に出た」(ミシェル・ル・シリアンの年代記より)。イスラム教徒は病身の少年が率いる300の騎兵に蹴散らされ、ボードゥアンはエルサレムに凱旋した(モンジザールの戦い)。しかし、1179年6月10日のマルジュ・アユーンの戦いでは敗れ、ヤコブの浅瀬の戦いではシャステレ城の建設を頓挫させられた。同年10月にヨルダン川上流に要塞を築き、サラディン軍と死闘を繰り返し、1180年にはイスラム勢と講和の協定を結ぶ。

ところが翌年、エルサレム王国の封臣である外ヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨンが非常識にも休戦破棄を告げずアラビアのヒジャーズ地方へ侵入し、大きな隊商をおそったため、サラディンはエジプト全軍でルノーの領地・外ヨルダンに押し寄せた。ボードゥアンはルノーの行いに激しく憤ったが、1182年6月に救援を呼びかけられてモアブからガリラヤまで転戦し、サラディンの大軍を追い返した。8月にはベイルート防衛にも成功している。

ボードゥアンはイスラム圏でもヌールッディーンの家系に属するアレッポ総督とモスル総督の独立を助けサラディンに対抗する。この2つの都をサラディンが攻めるとボードゥアンはダマスとホーラン地方に強力な牽制攻撃をかけて、ダマス近郊のダレイヤまで進出した。1183年11月にルノーがまたしても私掠船でヒジャーズ地方を荒らし、サラディンの反撃を誘う。ボードゥアンは全身不随、盲目という有様で軍の後から担架でルノーの要塞であるケラク城に着き、サラディンの軍と戦った(ケラク包囲戦en:Siege of Kerak)。サラディンが退却した後、守備隊を増強し城壁を立て直すまで、エルサレムに帰らなかった。


王としての死

一方、病がつのり結婚の望みが絶えてしまったので、ボードゥアンは王位継承問題に決着をつけておく必要があった。

レーモン3世は思慮分別に富み、サラディンと個人的に親しく、王に最も近い血縁であることから、王にもしものことがあれば王権を求めることもできたが、男子継承より近親継承を優先する土地の風習により、1177年、姉シビル(シビーユ)にピエモント貴族であるギヨーム・ロング・エペーを娶せ、二人の間に後のボードゥアン5世がもうけられた。しかしギヨームは数ヶ月後にマラリヤで亡くなり、継承問題は振り出しにもどってしまう。未亡人シビーユは当代随一の美男子というほか何の取り柄もないギー・ド・リュジニャンと再婚をし、下の妹のイザベルももっとくだらないオンフロワ4世と結婚する。王国の重責はボードゥアンにかかるが、病状は日ごとに悪化し断続的にしか政務は執れなかった。母のアニェス・ド・クールトゥネーも権勢と金銭欲の固まりのような女で、これら王の近親は王国を食い物にし、有能な家臣であるトリポリ伯を嫌う点で共通した。

1183年ナザレで行われた家族会議で王は王国の摂政権をギーに委任したが、たちまち無能さをさらけ出して摂政権を取り上げられ、11月にわずか5歳のボードゥアン5世の即位が宣言された。1185年ギーはアスカロンの領地に妻のシビーユを連れ出し、出頭を促す王の命令を無視するだけでなく、エルサレム王に帰服したベドウィン族を虐殺したので、激怒したボードゥアンは王国の全権をギーの敵トリポリ伯レーモンに委譲した。死期を悟った王は「すべての貴人に対して、エルサレムの王のもとに来たることを命じ、王が世を立ち去るときは、すべての者が王の薨去に立ち会った」(年代記より[要出典])。24歳没。

アラビアの史家エル-イマードは「この癩病持ちの子は、その権威を敬わせることができた」と書いている。十字軍の歴史を書いたルネ・グルッセは「その苦痛と克己に満ちた姿は、十字軍の全史を通じても、おそらくは最も高貴な姿であろう。英雄の雄姿は、膿と瘡におおわれながらも、聖人の面影を宿している。このフランスが生んだ王の純粋な肖像を不当な忘却の彼方からひきだして、マルクス・アウレリウス賢帝やルイ聖王のかたわらに置きたい」と賞賛している。
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ライ (ハンセン病)( Leprosy)
九州大学健康科学センター 山本和彦

      
1991年12月20日、パキスタンのペシャワル市でライ 患者の治療にあたり、パキスタン北西辺境州とアフガニスタン難民のライを根絶するためのシステム作りに全力を傾注しておられる中村哲医師に、本学で講演を していただくことになりました。この地域におけるライの実態、イスラム教社会におけるライの意義などについて興味深い話が聞かれるものと期待されます。身 体に現れる特徴的なスティグマ(身体上の烙印。罪を犯して神の罰を受けたことを示すとされる)の故に、忌み嫌われ恐れられたライは、宗教や歴史、文化と深 い関わりを持ち、数多くのエピソ-ドを残しました。ここでは講演を聞くための予備知識を提供する目的で、ライについて簡単に述べます。


ライ菌

ライ菌(Mycobacterium leprae)は、1873年ノルウエ-のハンセンにより発見されました。ライ菌は、マ クロファ-ジ(異物を貪食し分解する細胞。白血球の一種)やシュワン細胞(末梢神経を取り巻いてこれを保護する細胞)、筋細胞の内部で増殖する、結核菌と 似た性質を有する細長い桿状の細菌です。ライ菌を試験管内で培養することはできせん。生きたマウスの足低部でライ菌を培養することができますが、ここを超 える部分に菌が広がることはありません。抗ライ薬の効果を調べるのにマウス足低部のライ菌培養が用いられます。1971年ライ菌がアルマジロに感染するこ とが発見されました。ライ感染アルマジロは人のライ腫型ライ病の疾患モデルとしてライ研究に利用され、これを用いてライのワクチンをつくることが試みられ ています。

ライ菌そのものは生体にほとんど無害です。ライ菌に対する生体の防 御反応(免疫反応)が、皮膚や末梢神経、粘膜を障害しておこる病気がライと考えられています。ライ菌の感染性は低くはないのですが、発病するか否かは個人 の免疫反応性(細胞性免疫機能)に依存します。発病例はむしろ例外とされます。小児では、半数以上の例でライの皮膚症状が消滅し、自然治癒します。1歳未 満の乳児にライは殆ど見られません。


症状

ライの潜伏期は長く(1-7年)、初発症状(中央の陥凹した色素の 少ない皮疹と知覚鈍麻)はゆっくりと進行します。ライでは主として末梢神経が冒されます。手や足の知覚が鈍麻し、やがて完全に消滅します。手や足に傷を受 けても(特に足低部)これに気づきません。傷の手当が遅れて感染が悪化し、手や足の指を失ないます。運動神経麻痺で筋肉が萎縮し、手や足が拘縮して変形し ます。

ライの皮疹で眉毛やまつ毛が抜け、顔面に膨疹ができ、これが肉芽様 になって獅子面(ライ腫型ライの場合)という醜い顔貌になることがあります。また角膜炎や虹彩毛様体炎で視力を失います。鼻稜が肥厚したり壊れたりして鼻 が詰まり、鼻汁がでて喉頭が侵されて声が変わってしまいます。このためライは、体が腐ってしまう、体が醜く変形してしまう病気と恐れられました。この獅子 面と鼻稜の肥厚や崩壊、眉毛の脱落、手足の欠損などがライのスティグマとされました。

ライは臨床的に、ライ腫型ライと結核型ライ、中間型ライに分けられ ます。ライ腫型ライは皮膚の病理部にライ菌が多数存在し、結核型ライはライ菌が殆ど存在しません。主としてライ種型ライが感染力を有します。薬物療法で生 体のライに対する反応性が変化すると臨床型が相互に移動することがしばしばあります。ライ菌の繁殖そのもので死亡することはありませんが、知覚鈍麻で手や 足に重篤な感染症をおこして死亡します。


疫学

世界で約1200万人のライ患者がいると推定されています。未治療 のライ腫型ライ患者を有する家族内での発病率は5-10%です。患者の多い地域では住民の1-2%がライに罹患しているといわれます。患者の鼻汁(膿汁) が健常者に付着してライが感染します。感染した人の大部分は発症せず、発病が希であることは先に述べました。

抗ライ薬を投与するとともに、知覚鈍麻した手や足のケア行うことが ライ治療のポイントです。また、感染力を有するライ(中間型ライの一部とライ腫型ライ)を早期に診断して治療することがライ撲滅のために最も重要です。 



ライの歴史

地中海・ヨ-ロッパ世界のライ
旧約聖書の世界は、病気は神の罰であり、罪の証しであると考まし た。病人は神の罰を受けた不浄の者であり、これに触れることが禁じられました。流行り病(はやりやまい)になるのは悪霊が病人から健康な人に移ったからで はなく、病人に触れてはならないという神の掟を破ったためとされました。このような考えのもとで、身体に特徴的なスティグマを持つライ患者が、神の罰を受 けた者として追放された様子が旧約聖書に記載されています。

初期キリスト教は、病を癒す(いやす)治療者としてのイエス・キリ ストを重視しました。病気は罪の証しであり、耐えねばならず、治癒は神の恩寵によってのみ得られると信じられました。ライ(この時代のライはライ以外の皮 膚病も多数含まれています)や熱病、盲目、体の麻痺や不具(身体障害)から人々を救うイエスが福音書に度々登場します。イエスの存在自体が癒しに充分であ る場合もありますが、イエスが手で触れること、またイエスの衣服に病人が触れることが重視されました。イエスの癒しは超自然的力(神の恩寵)によるもので あり、それを信ずることが信仰であり、信仰によって始めて病が癒されると考えられました。医師(人)がイエス(神)に代わって病を癒すことが否定され、合 理的立場をとるヒポクラテス医学(医療)の伝統が軽視される結果となりました。病気の治療は医師(医学)の手を離れ、神の恩寵を伝える資格を持つとされる ベネディクト修道院ら聖職者の手に委ねられ、医学はルネッサンスまで長い暗黒の時代を向かえました。 

ライに冒されたロ-マ皇帝コンスタンチンI世(324-337年) は、3千人の子供の血を絞ってその風呂に入れば治癒するという異教徒の助言を拒否し、聖シルベスタ-(法王、314-335年)に帰依して治癒したとされ ています。これを機に信教の自由を認め、キリスト教の布教を許可したといわれます。

忌み嫌われ恐れられ、律法によって社会から追放されたライ患者(ま たはライと宣告された者)は特別の衣服をまとい、存在を知らせる鐘を鳴らし、喜捨を受けながら集団で各地を流浪しました。ライ患者は、ミサや告白、聖体拝 受のため祭日のみ町に入ることを許されました。

11世紀末に始まった十字軍の遠征で多数の兵士がライに感染し、こ れを援助するためラザルス修道会が12世紀初めに結成されました。この例にならい、中世末期にはライ患者を隔離し収容するためのライの家(レプロサリウ ム)が、それぞれの町の近くに作られました。スコットランドでは、追放され隔離されて生計を営むことのできないライ患者を扶養する義務が地域に課せられま した。森で見つかった動物の死骸や、市場で売れない肉や魚がライ患者に与えられました。このようなライ患者の悲惨な境遇は近代まで続きました。


中国のライ

秦漢の時代に成立したとされる黄帝内経に、ライの詳しい記載があり ます。内経はその病因と治療を「風と寒が体内にあり、溜まっている。これを慄風という。腫れた所を鋭い針で突き、汚れた空気を出すことが治療である。」と 述べています。

14世紀、チャウルム-グラ(インド東部でとれる木-大風子とい う)オイルがライに有効であると中国で言われるようになり、この治療法は抗ライ薬が開発されるまで(数十年前まで)世界中で用いられました。


日本のライ

わが国のライは「ナリンボ」、「ドス」、「カタヰ」などの名で呼ば れてきました。

「612年(推古天皇20年)百済から渡来した者の中に、体に白斑 を持つものがいた。白癩(シラハタケ)である。いやな病なので、この者を海中の島に捨てようとした。この者は“私の白斑が悪いものなら、白斑のある牛馬を 国内で育てないのですか? 私は小才があり、山岳の形を構えることができます。私を使えば、国のためになります。どうして海中の島に捨てるのですか”と 語った」と日本書紀に書かれています。833年(天長10年)に成立した「令義解」に「悪疾を白癩と言う。この病気は虫がいて、人の五臓を食べている。まつ毛や眉毛が脱落し、鼻柱が崩壊し、声が変わり、手足の指が落ちる。これ は人にうつるので同じ床に寝てはならない」とライの病因と症状が明快に述べられています。

平安末から鎌倉時代、ライは前世の因縁による罪業と言われるように なりました。ライから救われるには善根を積み、悔い改めることが必要と考えられました。鎌倉時代末期の医書「万安方」に「この病気はたちが悪く、よくなら ない。この病気に負けた(罹患した)者は一生を失う。一切の楽しみを絶ち、公私のことを処置して世間と関わってはならない」と書かれています。ライ患者は 社会から追放され(または自らを追放し)、乞食(こつじき)をしながら流浪したり、ライ仲間と身を寄せ合って生きて行くことになりました。江戸時代に四国 のお遍路が盛んになると、多数のライ患者が寺を巡礼し、喜捨を受けて流浪しながら一生を終えたといわれます。

明治以後、ライ患者を隔離することを目的としたライ療養所が各地に 設立されました。その多くは瀬戸内海の島や、人里から離れた場所に設けられています。抗ライ薬が進歩してライが治癒する病気となり、ライ患者が隔離される ことはなくなりました。しかしこれはつい最近の出来事です。 


おわりに

ライは、身体に現れる特有の病状の故に、古来から特別の意味(罪の 証し、罪業、天罰)を与えられてきました。そのためライは忌まわしい病気とされました。ライ患者は例外なく悲劇的な人生をおくらざるをえませんでした。 医療の進歩は、ライの病因を明らかにして神秘性を取り払い、抗ライ薬による救済をもたらしました。このような知識は、人 々のライに対する態度と意識を急速に変えました。ライの持っていた特別の意味は失なわれました。病気に対する医療の進歩が宗教や文化に深く影響を及ぼし、 これを変質させることがしばしばあります。ライはその最も典型的な例として興味深い疾患です。 



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らい病
ハンセン病

 今回はハンセン病(らい病)のことを書いてみようと思います。 熊本地裁で原告が勝訴してから盛んにニュースで取り上げられ、 小泉総理が上告しないですべての患者、元患者に対して賠償することを宣言して、 決着となりました。小生は政治については論じる気はありませんが、たいへんよかったと思います。

 ハンセン病がかつてはらい病といわれていたこと、また伝染病であることやその症状についても ご存知であることと思います。聖書にはらい病がでてきますから、 小生も多少の知識と関心がありました。家内の父親は若いときクリスチャンになり、 やはりらい病に関心をもってらいの療養所に行きましたから、そのときの話をよく聞きました。 その恐ろしさは「ベン・ハー」の中でもみることができました。そこでは「業病」と訳されていました。

 聖書の記述では、先にアロンのことを取り上げさせていただいたときに、 神様から授かった律法の中からレビ記16章に記されている「贖罪の日」のことについて触れました。 そのレビ記13,14章に「らい病」のことについて記されているのです。 モーセやアロンは紀元前1300年ごろですから、すでにそのときにはらい病があったわけです。 実は文献を調べていたらエジプトでは紀元前2400年ごろのパピルス文書に記録があるそうです。

 レビ記の13章はらい病の診断の仕方が書かれています。 そして14章には快癒したものの受入れについて書かれているのです。 日本政府はこの点について躊躇があったわけですね。 別に現代の日本政府だけでなく 歴史的に社会復帰を行なってきた記録はないのではないかと思います。

 らい病が世界的に蔓延したのは十字軍による大移動によるようですが、 13世紀にその頂点に達したようです。 この病気を防ぐ唯一の手段はその時代も隔離しかありませんでした。 実はレビ記13章の記事もそのとおりなのです。そしてつい最近までそうでした。

 13世紀に頂点に達したらい病は14世紀になると減退期に入ります。 もちろん隔離政策が効を奏しはじめたということもありますが、 流行にとどめをさしたのは、1348年の黒死病(ペスト)の流行でした。 これによって隔離されていたらい患者がいっそうされてしまったのです。

 前回アロンについて書きました。らい病の診断をするのも祭司の仕事でした。 それはたいへん慎重なもので、きよい者をらい病に定めることのないようよく配慮されています。

 そして問題は社会復帰です。これについても実に明確に書かれているのです。 神様はひとりひとりを大切に思われています。 ですからきよくなったものは受け入れられるべきであることをよく記しています。 ここが人と神様の大きな違いではないでしょうか。

 聖書ではらい病は罪の象徴のように記されています。罪は取り除くことができないばかりか、 伝染病のように広がっていきます。治療の方法がないのです。ただ死を待つだけなのです。 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」 (ヤコブ1:15)とあるとおりです。

 けれどもこのらい病をいやした人が聖書には登場します。言うまでもなくイエス様です。 「すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。 「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、 彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。 すると、すぐに彼のらい病はきよめられた 。」(マタイ8:2,3)  バプテスマのヨハネが弟子をイエス様のもとに遣わしてたずねました。 「おいでになるはずの方は、あなたですか。 それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」  イエス様の答えはこうでした。「「あなたがたは行って、 自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、 らい病人がきよめられ、 つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。」」 (マタイ11:4,5) イエス様はらい病をきよめることのできるお方でした。 そして私たちの罪からもきよめることのできるお方となりました。 しかしそれは十字架という大きな犠牲が必要でした。

 この記事は印象的です。「ある村にはいると、 十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、 「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。イエスはこれを見て、言われた。 「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、 大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。 九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、 だれもいないのか。」それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰が、あなたを直したのです。」」(ルカ17:12~19)  イエス様にいやされることを願う人は多くいます。救われることを願う人は多くいます。 しかし救われて神を礼拝する人は実に少ないのです。 イエス様はすべての人を罪の病から救い出すために十字架にかかってくださったのですが、 それを受け入れて救われ感謝する人は少ないのです。

 ナアマン将軍はエリヤから言われたらい病の癒しの方法があまりに簡単であったために、 怒って去ろうとしました。しもべの進言により気持ちを取り直してヨルダン川に身を沈めました。 するとらい病は癒されました。 初めナアマン将軍は仰々しい方法でいやしてくれるものと想像していました。 多くの宗教もそれに応えるようなシステムです。けれども簡単でした。 信じて素直になることが大切です。 救いもまったく同じであることが言えるのではないでしょうか。