Forgotten People,Forgotten Diseases
《マイコバクテリア感染症》〈ハンセン病〉P120~129
(P127~ ハンセン病では 初期症状の後 通常 2種類の症状のどちらかが現れる)
ほとんどの患者には類結核型と呼ばれる症状が現れる.これらの患者ではらい菌に対する強力な免疫応答が始まるため,顔や手,脚部,足先など身体各部の感覚が失なわれる,あるいは筋力が低下するなど(感覚と筋力の両方の症状が現れる場合もある),どの患者にも同じような症状が現れる.これらの変化は,末梢神経が太くなったり損傷したりするためである.まだら状の皮膚病変も顔,腕や脚の皮膚,背中,臀部に現れる.
一方,らい腫型では類結核型より重い症状が現れる.この症状が現れる患者は非常に少なく,らい菌に感染したときに活発になる免疫応答が開始されない(理由は今でも完全にはわかっていない).らい菌が皮膚で大量に増殖して広がると皮膚が厚くなり,結節ができて,肌につやが出る.また,耳たぶが変形したり眉毛や睫毛が抜けたりする.火傷などの外傷で外見の変形が進むことも多い.角膜が損傷して失明したり視覚障害が現れたりすることもある. (ハンセン病の臨床の説明: Leprosy Group,WHO,2002)
そのため 現在でも差別を受けている人々が大勢いる -Tsutsumi et al.,2007
らい菌に感染した場合に使用する抗微生物薬が開発され,有効性が示されたことで,ハンセン病の対策は大きく進展した.ハンセン病の治療に効果を発揮することが示された初期の薬剤としてスルホン化合物のダプソンがある.しかし,らい腫型ハンセン病のらい菌数が非常に多く,らい菌の遺伝子の変異率が高いため,初期のころから薬剤に耐性を示すらい菌が現れることが指摘されていた.薬剤耐性は結核患者でもよく起こる問題である.しかし,1980年代から研究者たちは複数の抗マイコバクテリア薬を組み合わせたパッケージを作って投与する方法で薬剤耐性の問題解決に取り組み始めた.現在ではダプソンとともに抗菌薬のリファンピシンとクロファジミンを投与する方法が広く使われている.この治療法は6~12か月間続ける必要があり,ダプソンとクロファジミンを1日1回,リファンピシンを1か月に1回投与する.
1991年のWHO総会において,10年間にわたってMDTを広く行うことによって,2000年までに公衆衛生上の問題としてのハンセン病を排除するという決議が採択された. Rinaldi,2005 who.int/topics/leprosy/
日本財団と製薬企業のノバルティス社が大規模な支援を行った結果,現在までに1,400万人を超える人々がMDTを無償で受け,過去にハンセン病のエンデミックが起きていたほとんどの国で排除目標が達成された.-Plorde,2004
(124…) MDT: multidrug therapy 複数の抗マイコバクテリア薬を組み合わせて投与する多剤併用療法 (…124)
ハンセン病の排除には
僻地で病気が発生していること 十分な医療施設が不足していることなど 他の多くのNTDsの対策や排除の取り組みと共通の問題があり…一方
ハンセン病特有の問題として 他のNTDsと比較して 治療法が複雑で 3種類の薬剤をうまく使い分けなければならないという問題
また,WHOなど複数の国際的な保健関連機関では,自分たちが提唱した「有病率を1万人あたり1人未満に減らす」という目的が適切かどうかという点で議論が起こっている.この目標は独断的なものであり,科学的な根拠のない政治的な目標であるという意見がある. Rinaldi,2005 who.int/topics/leprosy/
さらに複数のハンセン病の研究者が,世界のハンセン病患者数はWHOに現時点で登録されている患者数をはるかに上回り,MDTを受ける必要がありながら受けていない人々がもっと大勢いると考えている.ある推定によれば,新たにハンセン病と診断される患者の3分の1には神経損傷が認められ,今後さらに悪化して身体障害に至るとされている Lockwood and Suneetha,2005 Rodrigues aud Lockwood,2001
このような状況は早く患者を見つけ,直ちに治療を開始することで防止できる.
ハンセン病の排除をさらに促進するため 1999年にハンセン病排除のためのグローバルアライアンス(GAEL: Global Aliance for the Elimination of Leprosy)が新たに設立された
設立後,GAELプログラムが行った独自の評価では,ハンセン病の排除よりも,ハンセン病に対して長期的に活動をすることを重視した新しい対策を構築するとともに,神経が損傷した患者のリハビリテーションにより重点を置く戦略に変えることが推奨されている.MDTは患者の治療には効果を発揮するが,鼻の分泌物を介したらい菌放出は必ずしも防止できないため,ハンセン病の伝播を十分に阻止できないという別の懸念もある.このためハンセン病について検討している科学者や公衆衛生の専門家は,排除戦略について再考する必要があると考えている.
WHOはこのような懸念を踏まえ,日本財団,ノバルティス社,国際ハンセン病団体連合など複数のパートナーと連携して強いパートナーシップを確立すると同時に,MDTと身体的リハビリテーションを一次医療サービスに組み込むことなどの新しい持続的ハンセン病対策戦略を展開している. Rinaldi,2005 who.int/topics/leprosy/ Lockwood and Suneetha,2005 Rodrigues aud Lockwood,2001
この新たな国際戦略では,患者を早く見つけること,新たにハンセン病と診断された患者がMDTのすべての薬剤を確実に投与されるようにして障害を減らすことが重視されている. World Health Organization,2011 who.int/lep/
MDTは複雑なため より単純な対策方法の開発を進めることも求められている
さらに ハンセン病の伝播を短期間で防止できる より簡単なMDTを使用する可能性や 2001年に解析が終わったらい菌のゲノム情報に基づく新たな抗ハンセン病薬の開発-Cole et al.,2001
NTDs治療薬の統合パッケージなど,ハンセン病の対策と他の貧困病の対策との統合の可能性を探ることもこの戦略の一部となっている.-Lockwood,2004
この他の重要な研究活動としては,家族間での接触における予防的化学療法の検討と感染者を早期に見つけるための優れた診断方法の開発などがある.ハンセン病ワクチンの開発やマイコバクテリウム・ボビスのBCG〔カルメット・ゲラン捍菌・結核のワクチンだがハンセン病の予防効果をもつ〕の用途拡大に関する検討も必要とされている. Rodrigues and Lockwood,2011 Duthie et al.,2011
『顧みられない熱帯病』
(空白に少々 先のほうの《世界を修復する》より抜粋 -記入者)
アメリカの外交政策の新しい要素としてNTDs対策を取り入れることはできるだろうか.スプートニク〔ソ連の世界初の人工衛星.1号機が1957年に打ち上げられた〕が打ち上げられた直後,アメリカにはあまり目立たないが,保健と外交が結びついた希有な時代がある.最もわかりやすい例として1950年代中ごろから終わりごろにアルバート・セービンが開発した弱毒性の経口ポリオワクチン(OPV)に関する出来事がある. (紛争と感染症に関する論文: Hotez,2001a Hotez,2001b Hotez,2006 Broder et al.,2002 など)
このころアメリカでもソビエト連邦でも都心部でポリオのエピデミックが起きていた.そのためイデオロギーの違いはともかく両国は連携し,シンシナティ子ども病院のセービンの研究室にもともと保管されていた生ポリオウイルスをワクチンとして使い,ソビエト連邦で臨床的な試験を行った.多くのアメリカ人は,子どものころに投与された弱毒性経口ポリオワクチンが,ソビエト連邦の数千万人もの学齢期の子どもで臨床試験が行われた後に精製され,アメリカでの認可に至ったということを知らない.
また,その後10年経たないうちにアメリカとソビエト連邦の微生物学者が再び協力して天然痘ワクチンの大規模生産に成功した.
それが1970年代の天然痘の根絶をもたらした
ワクチン外交をアメリカの外交政策の普遍的要素として活用していく動きが20世紀後半につづいたが,成功したものと失敗に終わったものとがある.ピッグス湾への侵攻が失敗した後,アメリカは捕虜の開放を条件としてキューバに医療物資を送ったが,ケネディ政権はこれを機に国務省の下に米国国際開発庁(USAID)と平和部隊を作り,大きな一歩を踏み出した.
その後,ジョンソン政権の保健・教育・福祉長官だったジョン・ガードナーのアドボカシー活動が実を結び国際衛生教育法の法案が作られた.これは世界各地の大使館に医療担当大使館員と公衆衛生担当大使館員を配置するという画期的な計画だったが,残念なことに議事規則委員会で承認されず,実現しなかった.1980年代と1990年代は,全国予防接種デーがアフガニスタン,シエラレオネ,スーダンの紛争地域における停戦実現の重要な要素となった.
たとえば ジミー・カーターによるスーダンのギニア虫停戦交渉
ブッシュ政権はHIV/エイズ対策(大統領エイズ救済緊急計画[PEPFAR])やマラリア対策(大統領マラリアイニシアティブ[PMI]やNTDsプログラムの開始…アフリカとアジアの十数か国以上の国々とハイチに速攻パッケージが届けられている(neglecteddiseases.gov/countries/ 第10章)
それらはすべてUSAIDを通じて行われ 病気の世界的対策をアメリカの外交政策とする第一歩となったが それらの対策は単独のプログラムであり
「本当の意味でアメリカの外交活動に組み込まれて機能しているわけではない」
元アメリカ国家安全保障担当大統領補佐官 ズビグネフ・ブレンジスキーは
「世界中に文化的な変革を広めることで政治的なメリットが得られるのであれば」アメリカは「本当の意味で世界共通の目標を重視する」必要があり
「アメリカはグローバル化を何も考えずに当たり前のこととするのではなく,人類の健康状態を改善する好機と考えるべきである」と述べ
また「アメリカの政策決定機関が人類の健康状態の改善を重視して政治的に明確な倫理観をもってグローバル化を計画的に進めていかないかぎり,無批判な受け入れは面倒を招くだけで終わってしまう」と警告した
元国務長官 ヘンリー・キッシンジャーは同じように
「アメリカの国力は最高点に達しているが,皮肉にもアメリカにはそれとは裏腹の状況がある.かつて経験したことのない大規模で深刻な混乱に直面しながら,次々と起こる現実に対してどうにもできないでいる」と指摘
…ヒラリー・クリントンは 「シビリアンパワー」と名付けた活動(病気対策活動も含む)をアメリカの外交政策に実際に組み込むという提案を Foreign Affairsに寄稿した
Brzezinski,2004 P160-217 Kissinger,2001 P18-27
Nye,1999 Clinton,2010 P282~284『顧みられない熱帯病』
Peter J. Hotez, MD, PhD. 著 ベイラー医科大学(テキサス州ヒューストン)/国立熱帯医学校 創設学長/小児医学および分子ウィルス学・微生物学 教授/テキサス子ども病院/熱帯小児医学寄付基金 教授/ワクチン開発センター代表/セービンワクチン研究所 所長/ライス大学 ベイカー研究所 病気と貧困特別研究員/PLOS Neglected Tropical Diseases 創刊編集長
監訳:北潔-東京大学大学院医学系研究科 国際保健学専攻 教授/長崎大学大学院 熱帯医学・グローバルヘルス研究科長
訳:BT Slingsby-グローバルヘルス技術振興基金(GHIT Fund)CEO/鹿角契-グローバルヘルス技術振興基金(GHIT Fund)投資戦略・開発事業担当部長
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「人類を苦しめる について対策を立て,それを排除できれば,あらゆる面でメリットが得られることになる」P286 。。。。
国内のらい病なども じっくりと と 思っている
(最近の記事より ふたつコピー)
産経 2016.6.10 22:44 バチカンでハンセン病シンポ 元患者の石田雅男さん「残酷な歴史繰り返さない、忘れてはならない」と訴え
(9日、バチカンで開催されたハンセン病シンポジウムに出席した石田雅男さん)
ローマ法王庁(バチカン)で開催されたハンセン病国際シンポジウムで10日、岡山県瀬戸内市の国立療養所「長島愛生園」で暮らす元患者の石田雅男さん(79)が自らの体験を語った。石田さんは「残酷で悲惨な歴史を繰り返さない、忘れてはならない」と訴え、日本にある全てのハンセン病療養所の世界遺産登録を目指していると述べた。
ハンセン病はらい菌による感染症。感染力は極めて弱いが、日本では明治時代に隔離が始まり、1931年の旧「らい予防法」で強制隔離が法制化され、96年の法律廃止まで続いた。
石田さんは10歳で発病し長島愛生園に入所。薬によってハンセン病が治る病気と認識されるようになり、「人間らしく生きたい」と仲間たちと「人権闘争」に取り組んだ活動を紹介した。(共同)
くまにちコム ハンセン病「特別法廷」、最高裁が謝罪 2016年04月25日
ハンセン病患者・元患者の刑事裁判を、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(合志市)などの隔離施設に設置した「特別法廷」で開いていた問題で、最高裁は25日、必要性を慎重に審査せず設置し、裁判所法に違反していたとする調査報告書を公表した。今崎幸彦事務総長が会見し、「患者の人格と尊厳を傷つけたことを深く反省し、おわび申し上げる」と頭を下げた。
2001年の熊本地裁判決は国のハンセン病患者隔離政策を違憲と断じ、政府と国会は既に謝罪。三権の一翼である司法もようやく過ちを認めた形だ。しかし、元患者らが指摘していた憲法違反は否定。今崎事務総長は「法の下の平等を定めた憲法に違反した疑いは強いが、断定には至らなかった」と述べた。
報告書によると、最高裁の裁判官15人で構成する裁判官会議は1948年、ハンセン病患者を対象とする特別法廷の許可権限を事務総局に与えた。事務総局は設置の必要性を具体的に検討せず、ハンセン病の診断書があれば一律に許可し、48~72年に療養所や刑務所で95件が開かれた。
ハンセン病が確実に治るようになった60年以降も定型的な運用を続けており、報告書は「合理性を欠く差別的な扱いだったことが強く疑われる。誤った運用で差別や偏見を助長した」とした。
一方、裁判が公開されていたかどうかは、「開廷を知らせる『告示』を開廷場所の正門などに出していた」として、違憲性は認めなかった。
報告書には、最高裁が設置した有識者委員会の意見も併記。有識者委は「ハンセン病を理由に機械的、定型的に特別法廷を開き、憲法の平等原則に違反していた」と指摘。裁判の公開についても「療養所は一般の人は近付きにくかった。実質的に公開されていたというには無理がある。違憲の疑いは拭えない」と結論付けた。(中村勝洋、岡恭子)
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