日本の「医療史」 3

『日本の医療史』2006 新村拓 編

 

(中世 典薬寮の変質と空洞化)

 

典薬寮の衰退》より

 

鎌倉 室町両幕府には医療に関する職制はなく 令制の典薬寮を中心とする国家医療体制を継承するにとどまり 実質は医官世襲した丹波・和気・中原の各氏による請負体制…医業を家業とする氏族たちが行なっている営業活動に 国が保証を与える代わりに国家医療を彼らに担わせようとするものだった

 

器量の優れた民間医が排出するようになり室町期になり崩れ始め 官医の凋落が顕著なものとなる…民間医は守護大名戦国大名に召し抱えられ 公家貴顕の間にも進出し 顧客化…近世の幕依・藩医の職制は 個人営業の民間医を組織に取り込むことによって生まれたものである

 

国家医療体制の変質と崩壊の過程をたどると まず鎌倉幕府と官医との関係では その初期においては短期滞在型の往診という形態がとられ 官医のほうでは関東下向をいやがったが 「たいへんな饗応」を受けるなどした後 関東に派遣される官医たちの滞在期間は次第に長期化

 

鎌倉中期になると長期出向という形態に移行し 後家人やその家族の診療にもあたるようになる…「将軍御医師」「関東医師」と呼ばれ 鎌倉で生涯を終える者もいた

 

1248(宝治二)年幕府評定によれば、1219(承久元)年以来、医陰両道の類で摂家将軍に仕えて東下りをしてきた者は、先祖より幕府に仕えた者ではないが、後家人と号することを認めるとしている(『吾妻鏡』)。彼らの中には官医を辞して関東に本貫を移す者もいたようで、1276(健治二)年の評定では、医陰両道の輩が本道を棄てて後家人の養子となり、御領を知行することは「道の陵遅(衰退)の基」であるとし、自今以後の停止を命じている。(『新編追加式目追加』)

 

中世を通じ 唯一の国家医療機関だった典薬寮太政官機構全体の空洞化が進む中で 実質はどんどん失われていった

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(かつては合わせて二三〇町を越える寮田から上がってくる賃租・地子があったが それらも荘園化の進行により先細りとなり 典薬寮が中世において独自な財源として所有し得たのはわずかなものだった)

 

財源の一つは 薬種商から得ていた座役名目の上分銭…典薬寮を本所と仰ぐものに地黄煎売りの15人の座があり(『晴豊記』天正六〈1578〉年四月) また施薬院を本所とするものに鴨社の禰宜に率いられた緒薬商売千駄櫃があり…それは 丹波盛長の祖父の代より専売権が認められていたもので 1443(嘉吉三)年五月当時の上分銭は五〇〇疋(『康富記』)

 

二つには薬の販売収入で 典薬療では正月に用いる白散(びゃくさん)を 施薬院では午黄清心円を販売(『大乗院寺社雑事記』寛正三〈1462〉年一二月 『雍州府志』巻六) 緒家の求めに応じて調剤もしていた(『山科家礼記』文明四〈1472〉年七月ほか)

 

三つには摂津国与野河尻荘のほか 美濃・越前・丹波・播磨・備前近江国などにあった荘園の地頭職・領家職の得分 年貢地子(『康富記』宝徳二〈1450〉年六月 『後知足院房嗣記』応仁二〈1468〉年二月ほか)…いずれも療治賞として与えられたもの

 

療治賞にはそのほか 牛馬 絹布 衣類 刀剣といった現物があり 特に天皇上皇の療治にともなう勧賞では細かな式次第も決められている(『岡屋関白記』建長元〈1249〉年二月 『実躬卿記』正安三〈1301〉年一〇月)

 

それらは診療報酬にあたるもので 経営母体の典薬寮の収入とみなすことができるが 財源として不安定なもので 典薬寮としての公的な職務は滞っていくことになった

 

16世紀半ばの故実書『公武大体略記』をみると、典薬寮の職務は「月次日次の御薬を調進すること」とだけ記されている。諸国から薬種を中央へ貢進させるシステムが解体されるにともなって、典薬寮が管掌していた緒官司への予備配薬の職務はすでに平安末に行われなくなっている。官人の個別的な請薬に応える程度のものとなっていたが、それでも何とか維持できたのは、幕府からの財政援助があった室町前半期までであった。

 

「医陰両道滅亡無残」(『大乗院寺社雑事記』〈1470〉文明二年六月一八条)

 

典薬寮が関わってきた朝儀のうち

正月の「供御薬」は応仁の乱とその後六〜七年はなく(『大乗院寺社雑事記』) 1488(長享二)年になって復活(『御湯殿上日記』)

五月の端午節における「進菖蒲」は鎌倉末に廃絶したまま(『建武年中行事』)

九月の重陽節での「献菊花」も室町初期には衰退の状況(『光明院宸記』貞和元〈1345〉年九月)

 

また天皇の病が「増気」のときに執行される七仏薬師法で用いる五薬について 先例は典薬寮から進めるとなっていたものが 「近代は阿闍梨方より用意」することになっていると奉行の蔵人に言われ 典薬頭が引っ込むという場面もみられ(『薩戒記』応永三二〈1425〉年八月)衰退ぶりは日を追うごとに深まった

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そうした中で「公事中第一大事」(『貫首秘書抄』)と言われた叙位除目のみは別の動きをしている

 

 

《位階の上昇》

 

朝儀執行のために必要な資金の調達手段と位置付けられた売官売位 すなわち成功(じょうごう)-任官功・受領功が盛んに行われていた関係で 医官においては令制にみられなかった大小の允じょう権官が新設され ポストの総数は増加…特に著しいのは位階の上昇で それは安倍 清原ら地下官人(じげかんじん)の嫉妬と羨望の的ともなっていた(『壬生家文書』)

 

古代には中下級の技官として五位どまりだったが 室町期には二位 三位に叙される医官が現れ それは民間医との競合に曝されるようになった官医たちが 顧客の関係において優位な立場を維持しようとして伝統的な権威を求め また顧客となっていた公家たちが療治賞として安易に官位を与えていたことが背景にあった

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典薬頭を例に位階の上昇状況の推移をみると 鎌倉期には和気氏を抑えて優位に立った丹波氏は 時に「関東吹挙」と称する幕府による介入を受けることがあっても 基本的には典薬頭職を父から子へ譲渡する世襲の構造をほぼ確立させ およそ従四位上から正四位上を相当位としていた

 

「頭は四品以上の者を任ず」『百寮訓要抄』

 

五位から四位への上昇は 丹波氏への対抗意識に燃えて技量の優秀さをアピールし 昇叙を願う申文を提出していた和気氏の存在が大きく(『兼仲卿記』正応五) また丹波氏内部での主導権争いも昇叙の機会を増やすことに大きく貢献した

 

1331(元弘元)年六月 療治賞として丹波長直が初めて従三位に叙され(『玉英記抄』) それ以後 典薬頭の非参議従三位が定着

 

1454(享徳三)年正月には丹波盛長が正三位に(『康富記』)

1467(応仁元)年正月には和気(半井 なからい)明茂が従二位に など破格の昇進(『大乗院寺社雑事記』『公卿補任』)

 

医官は診療上の必要から昇殿を聴(ゆる)されていたが、それとは別に、殿上人(てんじょうびと)・堂上人(とうしょうびと)となる医官が現れたのは鎌倉中期のことで、室町期ともなれば、それが「近代連綿」という状態になっていた(『壬生家文書』)。

 

しかし、医陰両道の輩は昇殿を聴されても、ほかの雲客 うんかく(殿上人)とは同列に扱われず(『建内記』永享元〈1429〉年三月)、また堂上人や地下官人の中には医官の後塵につくのを嫌い、参賀の順番や席次をめぐる争いも生じていた(『親長卿記』延徳二〈1490〉年七月、『後法成寺関白記』永正五〈1508〉年九月ほか)。

 

一方、典薬頭が他官を兼務することは、平安中期以来のこととなっているが、中世には官職の形骸化が進んでいるとはいえ、宮内卿・内蔵頭(くらのかみ)・主税(ちから)頭・主計(かずえ)頭・主殿(とのも)頭・内匠(たくみ)頭・図書(ずしょ)頭・大膳大夫といった枢要な官職を兼務し、受領に至っては「医道陰陽道は近代五六度兼国、未曾有の事なり」と言われるほどのものとなっている(『玉葉』承安四〈1174〉年正月)。そのため医官には蓄財に励み財力豊かな者というイメージがつきまとうことになる。医官の中には五摂家など有力な堂上家に仕えて、家庭医の勤めを果たすだけでなく、家司(けいし)・家人・家礼となって雑用にも従事する者がいた。

 

たとえば和気相成は右大臣藤原実資の家司(『小右記』治安三〈1023〉年九月)

和気富就は左大臣鷹司政平の家来となっており(『親長卿記』文明一一〈1479〉年二月)

丹波親康は夫婦で近衛尚通に仕えている(『後法成寺関白記』永正五年九月ほか)

 

彼らは奉仕の見返りとして 官位の昇進や領家職の下付といったさまざまな便宜や賜物を得ていた

 

殿上人となった医官たちは公家貴顕との間に診療上の付き合いだけでなく 連歌や蹴鞠 楊弓などの遊びを介した交流も(『年中行事歌合ほか』)

 

また子女の中には天皇親王に近侍する者もおり

和気邦成の女播磨局(『吉田家日次記』応永八〈1401〉年四月) 和気保茂の女伊予局(『康富記』嘉吉二〈1442〉年五月) 和気富就の女新参局(『親長卿記』長享二〈1488〉年六月) 和気広成の女伊予局(『兼宣公記』明徳二〈1391〉年七月) 和気保家の猶子准后信子(『宣胤卿記』文明一三年七月) 上臈の半井(和気)就子(『二水記』文亀四〈1504〉年正月) 命婦の和気成子と丹波典子(『後愚昧記』永徳二〈1382〉年四月) 命婦の讃岐(『時慶卿記』慶長一四〈1609〉年一〇月) 足利義教の子を出産した和気郷成の妹小督局(『師郷記』永享六〈1434〉年七月) 冷泉為広を産んだ丹波重長の女(『公卿補任』) などがいた

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