嘯く mmm...

全身筋肉痛 のようでもあり(今日は休もう の日でした)^-^

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が 夕方 ニュースチェックだけ と思いながら出かけて

帰りがけ‥つい  -.- °° 結果 発掘系

そのようなことをすると 階下の歌声は賑やかに‥なりがち

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『日本歴史』日本歴史学会編集/2015年1月号/第800号/記念特集

(前後半の後ろ)《日本史のなかの嘘》

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菅原道真の「虚構」〉今正秀

藤原基経摂政辞表/貞観十八年(876)11月29日

清和天皇は九歳の皇太子に譲位し 藤原基経に幼帝陽成天皇摂政を命じた

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基経は12月朔日と4日に辞表を呈した

『本朝分粋』ではともに道真の作とするが

菅家文草』には12月4日のもののみを収める

朔日辞表「…良房が臨終に際して基経に清和の扶持を託し、その教えにもとることなきよう命じたが、いま自分が詔命に従って清和のもとを去って新帝の摂政を努めることになれば良房の教えを失うことになり、一方そうしなければ、清和の命に背くことになる」との意 97

二度目の辞表「基経の心は朝廷を離れるものではなく、今上〈陽成〉に臣子の忠を果たそうと思うとともに、身は常に清和に近侍することで良房の臨終の命を失わないようにしたい」と述べた

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『文草』『文粋』いずれも「幼主之代、太后臨朝」「幼主即位之時、或有太后臨朝」とするが

「日本の歴史においては幼帝即位そのものが清和天皇にはじまるのであり、その清和の場合も、したがってそれ以前にも「幼主」に対応した「太后臨朝」の例は存しない」

それまでの日本の歴史に照らして実際に存したのは「皇帝之母、必昇尊位」のみということになるが

仮にそれに拠ろうとしても 過去の事例と 清和譲位・陽成即位の状況には大きな相違があり

持統・元明(さらには元正も)が皇女だったのに対し 清和から譲りを受けた陽成の母藤原高子は臣籍の出自 98

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このように見てくると、道真が「故事」「前修」「前記」に拠るとしてあげた事例は、いずれも今回の事態への対応策としては厳密には適さないものであったといわざるをえない。もとより、道真が国史に照らしてこうした主張に難点があることを理解していなかったとは考えがたい。おそらくはそれを十分に承知しつつも、基経の摂政第二表に第一表にはなかった新たな説得性を持たせるため、これらの主張を盛り込んだのであろう。その場合、日本の歴史に存しなかった「幼主之代、太后臨朝」の根拠とされたのは、史書で学んだ中国王朝の事例であったとみてよいであろう。 98、99

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日本の歴史に照らせば「虚構」

「理由付けを試みたのであろう」が「そこでの主張が日本の歴史に照らして説得性がなかった」ことは

結果的に「妥当性をいわば裏面から証明したといえなくもない」 99

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良房・基経の摂政辞意が認められなかった…認めた場合 天皇大権代行という至高の職掌を担ってきた者をいかに遇するべきかが定まっていなかった

(光孝朝における関白の創始)

忠平辞表と勅答で良房の摂政辞意が容れられたとされたのは、「虚構」ないし誤解というよりも、関白の創始によってそれが可能になった後代の認識の反映だったのである。 100

(こん まさひで/奈良教育大学教授)

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嘯吹 うそぶき

島根県雲南市(「古代」の「出雲国大原郡)に 「嘯吹神社」という社があり

創設は「江戸中期の地誌『雲陽誌』によれば「元禄四年の建立」といい

「祭神」は「彦火火出見尊(山幸彦)」

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「うそぶき」という社名と「山幸彦」という祭神(名)の関わり

「うそぶき」は狂言面の「空吹 うそぶき」に通じ

「ひょっとこ面に具象するように口をとがらせ呼吸する 口笛を吹く 唾を吐く さらにはほらを吹く意であるという」

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古事記』によれば、山幸彦は案内された「綿津見神(海神)の宮」において提供された玉器にむかって自身の身に着けていた首飾りの玉を口に含み、唾を吐き入れたという。その行為を「うそぶき」としたのであろう。 90

〈古代の神話に嘘はない〉関和彦/八王子市史編纂委員

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〈天津教古文書の増殖〉山口輝臣/九州大学人文科学研究院准教授

天津(あまつ)教古文書が 竹内文書竹内文献の名で流布しているものと同じものだと知ったときは驚いた 138

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(『三千年間日本に秘蔵せられたるモーゼの裏十誡』1931)

「酒井に合わせて竹内が石や文書を作成したと考えれば良い」

「カスタム・メイド」だった

「その多様性は顧客が生み出した」 139

「捏造」という行動には(研究者の)「予言」を裏づける「石器を埋めていったという面」があり….

(もしかすると昨今の理研での出来事にも 似たところが…) 140

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竹内巨麿は1965年に亡くなったが 竹内文書に想像力をかきたてられた人は「むしろそれ以降 増えていく」

その中の一人

「空中浮遊」ができると雑誌社に売り込んで成功した翌月(昭和60年11月)、麻原は、学習研究社の雑誌『ムー』に、「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」を載せる。竹内文書に出てくるヒヒイロカネという金属を、酒井勝軍の文章をもとに岩手県で探し出し、それを用いると超能力が増幅したという報告で、ヒヒイロカネを読者にプレゼントする企画もついていた。このメジャー雑誌デビューをきっかけに会員は増加、麻原は、小さなヨガ道場だったオウムの会を宗教法人とする方向へと舵を切る(高山文彦麻原彰晃の誕生』2006) 140

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(上のあたりを含めて 山口氏の約3頁については さらに打ち込むかもしれません)

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